〜山浦との通電を通しての気付き〜

少し大切なことを書いておこうと思う。一身上の都合で、久々に日本語を使いたくなっているからだ。だから、なるべく口語体に近い言葉で分かりやすく書きたい。俺は実際、ごく親しい友人にしかこのフェイズで書かない。いわゆる俺のマジレスというやつである。ただ、俺のマジレスは「表現」であり、「表現」とはすべからく、他人の頭の中にあるもの(まさしく異物)を叩きつけられる行為である。ゆえに表現とはスキャンダラスで不謹慎で失礼な迷惑行為である。逆に言えば私がマジレスをしていないときというのは大体世の中の誰でも考えるようなことを考えたフリをした場合か、有名な人の考えの受け売りであるから、情報的価値はあっても表現としてはゴミである。


(しかし、"所詮は日本語で書くのであるからやっぱりマジレスだとしても日本語によるディスクール蓄積の受け売りではないか"という批判もあろうが、その点については以下の2点において反論したい。)


⑴まず、日本語は非常に微細なので、たまに物質性さえ帯びる。粘着質の言語をクチャクチャと口に含みつつ、ペッと吐き出すその瞬間をイメージして欲しい。そこにはきっとスクリーンを通しても消せない汚らしい唾液の匂いがこびりついていることだろう。砲丸投げの選手ように砲丸をベタベタと手のひらで確かめながら言葉を投げよと言ったのはかの有名な小林秀雄先生であるが、私はまさにそういうジメジメした粘着性を言語に持たせるのが得意な人であるから安心してほしい。


⑵俺がこれから批判するのはまさに貴様のようなやつだ!



よって以下の文章は不快である。


俺はソーシャルネットワーキングサービス(SNS)が嫌いである。というのも、殊、今の日本人がこれらのサービスを使うと、他人の意見を相対化できる俺は頭が良さげだろ的な使われ方ばっかりだからだ。(これについては後で深くdisるから待っとけ。)


もちろん、たくさんの情報をネットワークを使って摂取し、自分の意見を国際政治とやらの俎上に乗せるため、世界に向けて発信することは大切である。


だから、英語は大切だし、そのための前提となる日本語も大切である。英語が使えると、①「世界に向けて発信する」という日本語文がもつ自己矛盾がひとつ解消されるということだけでなく、②英語の次に話者が多い言語たちをまずは粗末な英語にしてみることもできるほど汎用性の高いクソ言語である英語で、文章の構造だけをまずは抜き取って考えることができるということ、という2つのメリットがある。



つまり、機微は分からずとも理解はできるという状態にデコードしたいなら英語ほど便利な言語はない。


「所詮はその程度のことだとも言えるのか」と色々な大切なことを単純化して看過することができる。例えばレイシストやドアホを相手にしていて、即刻黙らせなければいけないとき、英語は貴重なツールとなるだろう。


歌を唄いたいとき、とにかく誰かを元気にさせたいとき、破天荒なジョークを言ってとにかくすべてが「うわー」ってなっている可哀想な精神状態のとき、英語は貴重なツールとなるだろう。要するにそういうことである。



英語を素晴らしい言語だと思ってTOEICの点数のために目が充血しているやつは頭がどうかしているから放っておけばいいとして、なにかをデコード(要は何が言いたいの?という失礼な質問を)したいときにはとりあえず英語が便利だ。本当に素晴らしい言語である。


さて、というわけで、SNSFacebook上でdisろうと思うんだが、ここでdisろうとしているのは、あくまでも日本における最近のくだらんタコツボ的タグ付け大好きクラスターどものキモさについてである。英語で頑張っている人たちはおそらく上記の利点をよく理解して喫緊の行動(まぁお前らが好きなACTIONとでも言っておいてやろうか?)を取りたいのだろうし、それらはとても有効に働いている。また、早急にSNSから離脱を始めたエリートどもは、悔しいがお前らの判断は英断だと言わざるを得ない(クソエリートどもめが!俺はお前らが嫌いだ!)。それから、情報収集という名の傷の舐めあいであるTwitter界隈、それから自意識のマウントを取りたいオサレSNS界隈、私はもはやなんでも相対化しつつ"実は承認されたい"やつらの幻想にしか見えぬ。ツンデレもいい加減にしたまえ。(承認欲求より美味しいワインの快楽の方が濃度が高いぞ。)


【はっきり言っておくが、メタ視点に立てると頭がいいわけではないし、ひねくれてるとかっこいいわけではない。】


これは驚くべきことだった。私はそれをこの歳まで知らなかったし、これに気づいたときにはかなりビビった。頭が良くみえることと、頭がいいことはまったく別のことであったのである。いい人に見えること(ポリコレ)と、いい人であることはまったく別のことであったのである。そしてこれについては誰も教えてくれず、自分で気付くしかなかった。誰も教えてくれなかったのは、この違いを伝えることは構造的に不可能なはずだからだ。周りの大人たちのせいではない。


タイムラインに時系列に並べられた投稿を見たとき、誰かの心の叫びは、その下にある投稿で常に相対化できることを誰もが瞬時に知るだろう。


文字の価値は極限までバカにされ、誰かが必死で刻みつけた文字は限りなき等価性の海へと流れていく。海の底に沈んだ投稿は、再び取り上げられる。どこに取り上げられるかって?血祭りのときの生け贄になるためだよ。俺の言ってる意味が分かるだろ?


まして文学部の学生諸君なんか相対化の権化のような学生たちである。彼らは、どんなことも相対化できることを確信しているし、それに慣れているから、彼らのツイートは読んでいて面白いのだ。誰かの心の叫びが、どんどん血祭りにあげられていく。なんたるエンターテイメントか。楽しいではないか。そう、楽しいのである。


しかしここで問うてみたいのは、お前らが死ぬほど大事にしている属性の内容である。


西高校・美人・金持ち・貧乏・職業・都会・田舎・年齢・親・好きな音楽のジャンル、これらの組み合わせでお前らはなんとか自分の社会におけるポジションを死守しようとしているし、その一つしかない組み合わせを「アイデンティティ」などと呼び(この言葉の使い方を間違っている)、さらには自分の好きなものをある程度尊重する限りで、他人の好きなものも尊重してやるよ的な相対化を常にしている。みんな違ってみんな本当によかったな。



まさしくお前らを構成しているのは属性であって、その属性によって人の脳の中身や家庭環境までだいたい想像しては、悦に浸る。


誰かの属性の「劣化」を速報にするのは楽しいだろ?


結局はSNSのタグ検索を通して分かるのはこれらの属性であり、世界をどんどん流していくにはやはりこれらの①嘘っぱち独自性と、②相対性、この矛盾するかに見える2つを同時に与えてくれるSNSが便利なのだ。この2つの「矛盾しながらの同一」、すなわち【相対的独自性】という従来あり得なかったワードこそが、SNSという発明の核心である。では、核心とはどういう意味かというと、SNSとはなにかと聞かれたら、「相対的な独自性だよバーカ」と答えるのがおそらく一番的を得た答えだという意味だ。


【独自性の意味が、「自分の匂いがするということ」から、「誰とも違うこと」に変わったんだ。新しい組み合わせのことをオリジナルと呼ぶようになったんだ。この微妙な変化に気付けるか?】



では、人間は玉ねぎの皮みたいになってて剥がしていくとなんにもなくなるってことだろうか。俺は絶対にそんなことはないと信じるものである。どんどんお前の玉ねぎの皮を剥いてみるといい。それには留学が一番だ。ヨーロッパに来ると、国籍も出身高校も、すべてが実際に試される。別にお前が持ってる属性は、すごいのかもしれないしすごくないのかもしれないが、それに頼らないことができる時間と空間は割と限られている。


いわばデカルトの方法的懐疑を実地でやってみるということが留学の本質である。


ちなみに私が持っている属性というのはだいたいが真っ赤な嘘であるし、そもそもポンコツであるし、なんの役にも立たないのでこちらに来てから信用したことは一度もない。そもそも私は日本ですら親しい友人にしか本性を見せたことはない。彼らは信頼に値する仲間である。


裸になってみると、自分は自分の頭で考えることが割とできるなということが分かる。これは日本の大学に通っていると、最も苦手になる技能のうちの一つだ。まして文系の人間が最も苦手とすることであり、だから俺は文系の人間は基本的に信用してこなかった。彼らは読んだ本すら自分の属性にしてしまうからだ。読書家なんてまったく頭良くねぇぞってことをここでよく言っておきたい。


【割とマジレスすると、読書してるやつはサプリメント取ってるやつとあんま変わらないと思ってるくらいが丁度いい。】


さて、ここから私は論陣を180度ひるがえしてみる。


とはいいつつも、属性というのはなかなか素晴らしい。というのも、もしその人の一部じゃなかったら、そもそもそんな仮面を付けないからだ。つまり、ヒップホップ好きを公言してるやつをヒップホッパーと言ってしまうのはある面で正しいのである。ほんとにヒップホップが好きなんだろうから。


では、弁証法的にまとめてみよう。


つまり、すべての問題はこの「属性」という言葉から生じていることが分かる。誰かの特徴のひとつひとつを属性として列挙してみることというのは、それ自体がなにかを分類してクラスター化したいという欲望なのだ。


例えば、ここにフランス留学中の大学生がいるとして、そいつが非常に幼児退行的なところがあるとすると、それはそいつが幼児退行をしているのではなく、そいつは割とガキなのである。あまりにその豹変が激しいとしても、多重人格ではないのだ。その人の属性はその人の一部でもある。だから多重人格のひとは多重人格ではない。みんなその人である。こういう多重人格のような自己倒錯病というのは、この点を見えにくくする点で非常に恐ろしい。



さて、結論に入ろう。


「属性」とか「仮面」とか「人材」とか「劣化」とか言うな。


お前らSNSを未だにやっている理由を俺はよく知っている。それは、どんなテロも、どんな差別も、自分は当事者にならずに済むからだろ。俺の知り合いの東大生に面倒くさいからという理由であらゆる恋愛をしないやつがいるが、俺に言わせればそいつは頭が悪い。


永遠の冷やかしで居られる。でもそれは実は鬱製造マシーンでもあるんだ。ひねくれは、傷つかないようにするための防衛反応だ。 そして、そのために属性をたくさん身にまとう。しかしそれらの現実との乖離が激しくなった時、おまえは絶対に病むだろう。SNSをやっているひとにメンヘラが多い理由はこの投稿によって解明された。