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精神分析とはなにか、あるいは<星座>とはなにかー山浦を精神分析するために調べたことー

デリダが言いたかったのは、「良いことがあると必ず裏には悪いことがある」ということではまったくない。そればっかり書いてある入門書っていうのはまじでなんなの。「良いことをしようと思うと工夫がいる」ということである。



無意識とはどういう理論か。『しょうがない、大丈夫』と言っていても、それでも壊れてしまう人がいるということだ。というか、みんなそうである。人間はそうやって強がってはいるが無意識がダメージを受けていてマグマのように蓄積されていく。頭のいい理屈屋は無意識に無自覚なことが多い。例えば、『君の言ってることは理性では分かる。しかし、それでも分からないひとがいるってことはどうすんの?』っていう観点を指摘されるとビビる。この観点が抜けている人が多い。例えば、サルトルの『無意識など存在しない』という発言は、『サルトルは無意識をめっちゃ抑圧している』という意味になる。無意識についての学問は、イデオロギーではなくコスモロジーである。因果関係ではなく星座(コンステレーション)の学問だ。自分を関係の中に入れ込むこと。それによって<意味>が分かる。多神論的思考。お互いが理解しえないことを理解し、それでもその人と関係を切らないこと。全然違うがゆえに、もっと話し合おうではないかと言ってみてはどうか。愛するとは「いかなることがあっても関係を切らないこと」だ。愛されなかった子供はなぜキレるのか。それはもう既に関係が切れているからだ。居場所がないこと、吸うべき空気がないことを訴えている。なぜ彼らの声を聞いてやらないのか。


ところで、日本は多神論だろうか。アマテラスとスサノオの対立構造と、ツクヨミノミコトの中空構造が日本神話である。ここがギリシア神話とは根本的に違う。左翼が同じ服装してる。大震災で無政府状態になっても略奪が起きない。反対集団も母集団と同じ集団を作る。不在で透明な中心(長老=実は何にも分かっていない)の命令が強い。日本の一神論は言語化されてないぶん、西洋の一神教よりなお、特殊な一神教なのではないか。良い面も悪い面もある。西洋では社長(理念的で論理的な男が選ばれる)を倒せば会社のルールを一気に変えたりできるわけだ。しかし日本ではまぁまぁと言われて飲み屋に連れて行かれる。


日本では、嫁入りの儀式と葬式の儀式が似ている。茶碗を割るのだ。その前は、日本は子供を甘やかす。いわゆる箱入り娘だ。結婚してから母親になる訓練が始まる。それがシュウトメによる嫁いびりだ。つまり、家から嫁を送り出すことは、甘やかした娘を殺すことになる。もう帰ってこないものと想定する。だから甘やかす。だから茶碗を割る。西洋は「母親になる訓練」を子供の時からやっておく。日本は「勉強しろ!」という説教にその訓練の時間を奪われている。



原始、日本に個室はなかった。居候がいたりして、プー太郎の叔父さんが子どもの友達だった。家全体が子供を育てる。いや家だけではない。ホタルも蝶々も子育てに協力する。おじいちゃんは科学の時代に科学を無視して、変身するタヌキについて話し、おばあちゃんは父母の教えを平然と無視して、こっそり飴玉をくれる。こうして、近代家族は祖父母の世代を煙たがるが、祖父母は、父母の裏面(裏の父・裏の母)をやっているのではないか。なぜそんなことが言えるのかはこれから論証する。


理想的な子供の教育とは、ジレンマの只中に子供をおくことである。裏の母である祖母が、お母さんが禁止しているお菓子をこっそり子どもにくれたとする。すると、お母さんに『誰にお菓子なんかもらったの』と問いただされたときに、『おばあちゃんがくれたの』とは言えない。なぜならおばあちゃんが大好きだからだ。しかし、お母さんも大好きだし、嘘をつくのもいけないはずだ。こうやって子どもは思考することを学ぶ。友達から、『絶対に誰にも言うなよ』と言われた秘密を誰に言えばいいのかを、子供はここで学ぶのだ。


和辻哲郎が『風土記』で言ったことを思い出そう。モンスーン型の地域では、母はきまぐれになり、父は、農作物が育つのを待つために受容的になり忍従的になる。農耕をするために、周りの天候を見るために周囲を見渡すようになる。台風が来ると、それに耐えるために歯をくいしばるようになる。とにかく台風が通り過ぎるのを待ってとことん耐える。だから戦争が始まると、とことん耐えて耐えて耐えて子供を戦争に送り出したりするし、お上の言うことにはとにかく耐えるようになる。これが日本の強い父親像なのだ。これは西洋においては母性と言われている。『俺は戦争にはいかない!なんでこんな戦争に行かなきゃいけないんだ!答えろ!』という決断を迫るタイプの思考こそが父性である。日本の父は母性的なのでそういうことは基本的になかった。次に地中海・牧場型地域のひとは、自然が従順なので、規則性と合理性を重視する。これは母性でも父性でもない。次に砂漠型地域の人は戦闘的・対抗的な思考をする。これは朝青龍のことだ。朝青龍の出身はモンゴルである。というか、砂漠においては、父性というのはひとつとって全てを捨てることだ。それくらい強い切断である。例えば、ヤギの群れを率いるときに、一匹のリーダーのオスだけ残して、他を全部殺したりするのが父性だ。だからこそそれを保障するマリア様が重要になる。これは京都大学の谷豊が『聖書世界の構成論理』でも述べたとおりである。つまり、日本の父とは母性なのだ。西洋において、父性とは切断である。母性は包摂である。ちなみに、母性を父が担ってもいい。ちなみに、父性を母が担ってもいい。いずれにせよ、家庭には2つないといけない。日本の父というのは母性的である。日本の子どもというのは父性的である。それにしたがって、日本の母というのは父性的になってきた。西洋の理論を東洋に適応するとこれだけねじれてしまう。日本において父性が発揮されるということはめったにない。極めて危険である。日本社会で、『あなたの言ってることは間違っていると思う』と言ったらもう終わりである。男はいつも会社で母性的に振る舞う。『いやいや皆さんの言うとおりでございます。』と耐え続ける。しかし母は父性なのだ。『あなたはっきりしてください!』という妻が増えてきた。日本女性や子どもの心は気まぐれなので、西洋の父性を速攻で内面化できるのだ。だから子どもの要求も強くなる。取り残されるのは母性的な父ばっかりだ。


そもそも人間はなぜおばあちゃんからもらえる飴玉ごときで嬉しいのか。それは、「絶対ダメだけどたまにオッケー」というものだからだ。飴玉もらったくらいじゃ別に今時嬉しくないはずだ。しかしお母さんはおやつを禁止しているとしたら、おばあちゃんだけが、裏の母として甘やかせるのだ。とくにおばあちゃんは自分の子どもじゃないからとことん甘やかすことができる。急に核家族になって対応できなくなった。親が一所懸命になった。一所懸命という概念は定義よりあらゆる場合においてクソである。一所に懸命になって良いことは絶対にない。リスクは全体で分散するべきだ。


一方で、西洋には個室がある。しかし、むしろ居間(リビングルーム)を重視する。西洋は核家族という近代制度を作るためにどれだけ工夫をして、苦労をしてきたか日本人は分かっているのだろうか。ある制度は必ずメリットとデメリットがあるわけで、きちんとデメリットを考えあぐねた上で、工夫して導入せねばならない。日本はすぐ近代家族制を導入し、使ってしまった。西洋人の子どもは特別な用事がないときは、そして成人するまでは、居間にいるようにしつけられている。14歳くらいになると初めて個室の鍵を渡されるのだ。友達が家に来たら必ず家族に紹介する。すぐに自分の個室に閉じ込もってみんなでゲームをやって、母親にはジュースを持ってこさせるだけなんてことは絶対にない。西洋のやってることの猿真似はやめたほうがいいだろう。なぜなら文化的素地がないからやってもうまくいかないからだ。だとすれば、日本の核家族家庭は、裏の母、裏の父を導入すればどうだろうか。どうやるべきか。誕生日には必ずある決まったケーキを買って、他の日には絶対買わないというルールを作ったらどうだろう。そうするとリズムが生まれる。誕生日でなくても別にいつでも買えるもので構わない。子どもはそれでも喜ぶからだ。なぜなら、子どもが欲しいのはケーキではなく愛だからだ。安いケーキに感激してみんなで喜んでしまえ。その嘘を、心底子どもは喜ぶ。なぜならその嘘は本当だからだ。誕生日の日にだけもらえる安いケーキの裏に愛を見抜き、毎日食べれる高いケーキの裏に、愛をカネで買う大人のクソさを見るのが子どもたちだ。


子どもはバブルが崩壊して喜んでいるかもしれない。なぜなら、バブルが崩壊したことで、父が家に残業せずに家に戻ってくるからだ。みんなで貧しくなっていきましょう、というのは、みんなで幸せになっていきましょう、という意味かもしれない。テレビは丸かった家庭を半円にした。いまや個室にひとつテレビがある。みんながマスコミからイデオロギーを受信している。テレビのキャスターの言っていることを家族でも話す。


心を使う代わりにカネを使うな。それを子どもは絶対見抜くぞ。高い商品を要求する子どもは、それが本当に欲しいのではなく、親は自分への愛のためにいくらのカネを使うのかを試しているのだ。


まず安易に愛さないことから出発して、本当に愛するとはなにかを考えろ。


ところでノイローゼとはなにか。ノイローゼっていうのは、「これさえなければどんなに俺はすごいか」って言う人のことである。「うちの子供さえ学校に行けばすべて解決する」という専業主婦の考え方だ。しかし、それが言えるのはノイローゼがあるからで、ノイローゼってほんとに素晴らしいよね。だって、ノイローゼが治っても多分その人は自分で言ってるほどそんなにすごくならないし、治ったらノイローゼのせいに出来なくなるのだから、理想と現実の乖離でよりつらくなるのは目に見えている。その意味で、ノイローゼは登山に似ている。登りきると、また登りたい山が現れる。登山家は山から降りてくると、「もう山なんか懲り懲りだ。二度と登りたくない」と言うくせに、しばらくするとまた登りたくなる季節がやってくる。案外、悩みというのは抑え込むと、違うところにもうひとつ現れるらしい。悩みは抑制するべきではなく、直面し、末長く付き合っていくべきなのだ。性格も同じである。幼年期を過ぎたら、人間の性格はほとんど変わらない。どんな性格にも必ずメリットとデメリットがある。口下手な人は聞き上手になれる。男らしい人は神経がガサツだ。神経がガサツな人はおおらかだ。神経質な人は繊細なのだと思ったらいい。その人の素晴らしさを見つけて肯定できる。それが知性だ。だとすれば、どんな性格も変える必要などないではないか。重要なことは、自分の性格を自覚し、メリットを伸ばすことだ。それを助けてやるのが教育なのではないか。知識を授けるのではなく、万物の楽しみ方を教えろよ。



さて、深層心理学とはなにか。私がまさにこの私のことを考えて物語にして普遍化させることが深層心理学である。なぜ物語は<普遍化>できるのか。物語は生きながらにして作られていくのだが、人間はそれぞれ全く違うのに、<人間の作る物語のパターンはそんなに多くないから>である。みんなが生きながらにして物語を作るのだが、その物語が少し本当の自分とズレている。どんな伝記も本人と少しズレている。お通夜の時に友達が話す自分の人生と、実際の自分の人生が少しズレている。そこに私の生きた証がある。この意識と無意識のズレがある一定の量に達して意識がもはや無視できなくなったとき、無意識からある暗号が送られてくる。これが悩みだ。フロイトはノイローゼだったし、ユング精神分裂病だった。悩めるということはなんて素晴らしいんだろう。光の波動説という物語が粒子説に勝利したとき、エーテル説はいよいよ絶対視された。しかしながら、光が高速を維持するためには媒質はものすごく硬くないといけないはずだ。しかし地球の公転は硬い媒質との摩擦によって減速していかない。ということは、エーテル説を絶対視することでエーテル説の矛盾はますます溜まっていく。これを解決するには光の速度を慣性系の中で不変定数化しないといけない。しかしそうすると、あそこの時間とここの時間は違う時間が流れていることになる。同時刻はありえないなんてことがあるだろうか。物体が平面になってたまるか。銃弾を走りながら撃ったら銃弾は速くなるはずだ。なぜ光はそうならない。こうして科学者という物語作家たちは悩み始めた。悩むことは自分たちの物語の更新を無意識によって迫られているということだ。人生にもそういう時期が必ずやってくる。どうやってその症状を生きるか考えなきゃいけない。そのとき、他人のことにはすぐ気がつく。しかし自分の症状には気づかない。誰にでもなんとでも言える。深層心理分析は、的中したときには分析が当たったことにして、外れたときは本人の抑圧のせいにしてしまえばいいのだ。だから、深層心理学は他人に適応できるものではない。井筒俊彦の『意識と本質』には<自分の>意識の深層への旅がしっかり書いてある。花が存在してるのではなく、存在が花として顕現(manifestation)しているようになるのが意識の深層だ。


星の散りばめられただけの夜空を見ているとそのなかに柄杓が見え、白鳥が見え、大熊が見え、サソリが見えてくる。これを<布置>という。コンステレーションという。星座は変わる。北極星だって位置が大きく変わっている。しかし、その都度、星座は見えるじゃないか。自分の位置から見るから星座が見える。星座のひとつを構成する星には、自分も入っている。自分も入れ込んで初めて見えてくるこの星座の布置が<意味>だ。他人に適応する深層心理学分析にはなんの<意味>もないといったのはこういう意味だ。他人を深層心理分析するのは、やっちゃいけないのではなく、それは単に<意味>がないのだ。自分の子どもの万引きというある現象の<意味>が深層心理学を使うと、フッと分かる。北斗七星は地球から見たらヒシャクに見えるが、違う星から見たら、ヒシャクには見えないはずだ。