猿でも分かるデリダ②、あるいは言語の外部に出ることはいかにして可能かーデリダ・フッサール・山浦ー

忘却しないと日常が成り立たない。忘却しないと正気ではいられない。たとえば永井均なら私の独在性を忘却していると主張する。つまり、私の単独性は忘却していないと日常が成り立たないというのだ。ラカンだったら死の欲動を忘れることで生きていられると言うだろう。アウグスティヌスだったら愛を忘却しているという。レヴィナスだったら他者による倫理的な呼びかけの先行性と言うだろう。マルクスだったら、スミスやリカードが価値形態論における交換の非対称性を忘却していると言うだろう。プラトンだったら愛だ。ハイデガーだったら存在と存在者の区別を忘却しているというだろう。ハンナアーレントだったらアテネ的な公共性だろう。デリダ的にはエクリチュールの根源性が忘却されている。みんな違う。しかし、これだけは言える。「忘れているから、それを復活させましょうよ」ってなったらクソ哲学だ。頑張ってもう一回やろうよって言っちゃってるのはクソである。そもそも、なぜ喪失に気づくことができるのだろう。忘却においてしか出現することができない。そういうものがあるのではないか。完全に忘れているなら思い出せるわけがないじゃないか。山浦、あんたはなにを忘却してると感じる?それがその人の哲学だ。哲学の使命は「こうしたらよろしい」ではなく「こういう風に考えてみるのはどうか」、「これを考えるのを忘れていませんか」と言ってみることだ。哲学とは何か。無自覚にサインされていく利用規約の再提示である。自分が望んでいるものがなんであるかを発見して、利用規約を書き出し、徐々に獲得し、望んでいるものののいくつかを本質的に獲得不可能なものとして捨てること。



文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損なふことが多くなった。ー中島敦『文字禍』ー



デリダの『グラマトロジーについて』で議論されていること】

純粋なパロールを求めれば求めるほど、エクリチュールによる代補がかえって強まり、透明性から遠ざかっていく。レヴィ=ストロースの中にも代補を介して生き生きとしたパロールを見ようとするルソー的な眼差しがある。現地人は自分たちをエクリチュールなき社会だと思っているのだろうか。レヴィ=ストロースのテキストの中にも先住民たちが自分たちの世界に関する表象を模様にして道具や呪物に書き込む習慣があること、固有名があること(それを聞き出して罪悪感を感じたらしい)、が示されている。なぜその「書き込み」(=原エクリチュール)は西欧人の文字とは全く異質のものであると言えるのだろうか。無文字の先住民だって、社会的主体として自分のアイデンディティをエクリチュール(=フォーマット)へと書き込む準備がもうすでにあるのではないだろうか。レヴィ=ストロースは「西欧人/未開人」の二項対立に自覚的ではあったものの、文字についてはまだかなりナイーブである。デリダはこれを、レヴィ=ストロースがルソーのファンであったからというレベルでは済まされない西欧哲学の根本的な問題であるとして敷衍していった。エクリチュールに代わりに補われることでしか接近できない「透明な」主体は結局どこまでいっても、エクリチュールの外部に出ることはできないのか。どこかに突破口はないのか。ある。



以下参考文献は

野家啓一『物語の哲学』


野家啓一は日本のリチャードローティーだ!


【口承言語という第三の道

口承言語は音声による口から耳への伝達であることにおいて音声言語により近く、他方、発話状況の共時性と文脈依存性とを超えた通時的伝達であることにおいて文字言語により近い特徴を持っているからである。すなわち、声の直接性と伝承の歴史性という双面神的性格を身に帯びている。p30


口承言語は敢えて言えば真理の専制支配を離脱し、同一性の危機を同一性の戯れに転化するひとつの異化装置にほかならない。それは同時に、文字と真理の共犯関係の上に成立した近代文化の存立根拠を掘り崩す手がかりをもわれわれに与えてくれるはずである。p41



【なぜ衰退した?】

口伝えの物語を衰亡に至らしめた外的条件が文字の普及と印刷術の発達であったとすれば、その内的条件は内面の成立と告白の制度化であったということができる。p24



【代補】

ルソーが激越な調子で(告白を)叫んだとき近代的個人は書き記されるべき内面を獲得し、告白という制度をその手に握ったのである。<むろん、ルソーがあらわにしようとした素顔なるものがもう一つの仮面にほかならなかったとしても、それはそれでかまわない>。要は素顔という仮面の背後に告白されるべき内面が形成されたことこそが重要なのである。p24





【日本的近代=文壇における告白】

それに何ぞや申しにくいことではあるが、書くかと思えば身辺雑事小説、何一つの物新しい実験もせぬ癖に、筆を自身の見聞の世界に限って、誇張をおそるること虎狼のごとく、ありのまますなわち文学だと思っている者があり、一方にはまた、たまたま<小児などの自然かつ自由なるウソ>を聞くと、慌ててこれを叱りまた戒めようとする者が多くなったのである。近世の文学論の中には、いかにも中途半端な写実主義というものがあった。生活の真の姿と名づけて、ただ外側の有り形のみを写したものまでが、文芸として許容せられ、そうして<我々が眼覚めていかなる夢をみるか>を省みなかったのである。p28




フッサールとルソー】

いわばフッサールは、理念的客観性(同一性)を間主観性(言語共同体内の追理解)と反復可能性(文字言語の中に沈澱した意味が可能的に無限の読者の前に開示され、その再活性化と無限反復を可能にする。)に基づかせることによってその「不断の存在」を確保することに成功したが、それは反復と再活性化に否応なく伴う再生的変様によって理念的対象の同一性を危機に晒すという代償を払ってのことであった。しかし彼にとって「同一性の危機」はそのまま学問の危機にほかならなかった。それゆえにこそ彼は、本源的明証性の回復を学問共同体の名において要請したのである。(つきつめていえば、最初の幾何学者たち(たとえばユークリッドとか)の心に宿った意味形成の本源的明証性を、時をg隔ててありのままに、あるいは可能な限り近似的に再現せねばならないことを、学者たちの努力目標としたのだ。)p40




最初の人間の言葉は幾何学者の言語であるとされてきたが、私たちにはそれは詩人の言語であったと思われる。当然そうであらねばならなかった。人は初めから考えたのではなく、まず感じたのだ。それならば言語の起源は、どこに発しているのか。精神的な欲求、つまり情念からである。生きていく必要に迫られて、互いに遠のいていく人々を、あらゆる情念が近付ける。飢えや渇きではなく、愛や憎しみが、哀れや怒りが、人々に初めて声を出させたのである。

ルソー『言語起源論』


→『幾何学の起源』におけるフッサールが、言語活動の基盤をあくまでも学問的言説を支える限りでのロゴス、すなわち学問的「理性」の内部に見さだめようとしていたのに対して、ルソーはここで、言語の起源を「幾何学者の言語」にではなく「詩人の言語」に、ロゴスではなくパトスの中に捉えようとしている。喜怒哀楽の情念こそが、人間に最初の言語的音声を発せしめたのである。言葉はまず思考の媒体として成立したわけではない。最初の言葉は情念の直接的で透明な表白であった。むろんこれはルソーが立てた一種の歴史的仮説である。だがこの仮説は歴史的証拠によってというよりは、むしろルソー自身の「直接性への欲望」によって支えられている。ルソーのテクストを「透明性」と「障害」との交錯の中に読み取ろうとしたスタロバンスキーならば、その欲望を「彼が生きることを余儀なくされている世界、すなわち媒介と間接的な行動の世界に対して、人間の関係がより多数でない、はるかに直接的ではるかに確実な手段によって確立されるであろうところの可能性の世界を対立させるために前者と戦おうとする欲望」として分節化するであろうし、またルソーの立論を「ある感情的な欲求がそのようにして歴史的な仮説に変形され」たものとして特徴づけることであろう。(中略)それからすれば文字言語は明らかに「透明性」を侵食する「障害」であり、いうならば奴隷の言語の媒体ということになるであろう。およそ200年の後にレヴィ=ストロースはナンビクワラ族の民族誌の一節を「文字の教訓」と名付け、その中で「文字というものは、知識を強固にするには十分でなかったにせよ、支配を確立するためには不可欠だったのであろう。かくて、文盲をなくす運動は権力による市民の統制の強化と融合する」と述べているが、われわれはここに、遠くルソーの残響を聞き取るができる。このルソーからレヴィ=ストロースに至る文字言語批判の系譜の中に、プラトン以来の「音声=ロゴス中心主義」の正統的な後継者を見出したのは、言うまでもなくデリダであった。すなわち、「形而上学のこの時代の内部にあって、つまりデカルトヘーゲルの中間にあって、確かにルソーは、この時代全体を通じて根本的に内包されているような文字言語の還元を主題にし体系付けた唯一のあるいは最初の人である」というわけである。しかし、(中略)ルソーにおける音声言語の優位性は、ロゴスに対するパトスの根源性に基礎を置くものであり、むしろ近代哲学の中に支配権を確立しつつあったロゴス中心主義に対する根本的な批判を企図したものであった。それゆえ、ルソーをロゴス中心主義の代表者に仕立て上げることは、彼にとっていささか酷な処置と言うべきであろう。だが他方で、デリダが放った批判の矢がルソーの音声中心主義の背後に潜む、彼の痼疾ともいうべき「直接性への欲望」そのものに向けられたものだとすれば、ルソーをプラトン以来の「現前の形而上学」の系譜の中に位置付けることは、それなりの根拠を持った主張だと言わねばならない。直接的で透明なコミュニケーションを求める欲望は、言語論の文脈においては、しばしば意味作用を支配する話者の特権性を暗黙のうちに前提し、意味理解の基準を話者の意図の現前に還元する構図を採用することにつながるからである。したがって、デリダのルソー批判は、むしろ音声言語における「話者の特権性」の解体を目指したものとして読まれねばならない。そのような観点からすれば、デリダの音声言語批判は、「口承言語」の特質を側面から照射する役目を果たしてくれているのである。p43




リゾーム的物語生成】

私たちはこれを説話の変化部分、または自由区域と呼ぼうとしている。ひとり後代の御伽冊子が、その真似をしているだけではなく、口で言い継がれる昔話においても、婦人などの忠実に聴いた通りを話そうとする者の他に、その場相応の改作と追加とを、かなり巧妙に試みる者があったのである。上古の最も厳粛なる神話時代にも、これはなお認められていた技術だと私は考えている。すなわち赫奕姫(かぐやひめ)に幾人もの求婚者があり、いかなる方法をもって近寄ろうとしても、徹頭徹尾決して許さなかったという筋は不変であって、ただそれを例示する幾つかの場合を、話者または筆者の空想の活躍に委ねたのである。これもあまりに面白く巧みにできたものは、後には定まった型となって守られ、あるいはそれからまた一つの新たな話が分岐することもあったようだが、原則として取捨を許されていた。柳田國男


→ここではリゾーム型の物語生成の過程が実に鮮やかに描き出されている。花田清輝はそれを指して(中略)「送り手と受け手との相互交通の上に立った、文字によって拘束されない、ダイナミックな表現」を通して「説話全体に溌剌とした画期と無限の柔軟性」が与えられていると述べているが、まさに言いえて妙というべきであろう。p74



Cf.言語以外(パロールでもエクリチュールでもない)のミディアムとしての身体、それもアルトーのいう「器官なき身体」も直接性への欲望の系譜なのだろうか。



淀川長治のような、映画を語り続ける人が必要なのだ。蓮實重彦



ブレヒト『銀行強盗など、銀行を建てる暴力に比べたらどれほどのものか。』


デリダ:悪の存在論

第1のエクリチュール暴力:お金が存在する暴力(名付ける暴力)

第2のエクリチュール暴力:銀行を建てる暴力(第1の暴力を隠す暴力、つまり、金を隠す暴力すなわちモラル=名前を隠す暴力)

第3のエクリチュール暴力:銀行強盗をする暴力(第2の暴力に対する暴力)

デリダ「レヴィストロースは研究頑張ったみたいだけど、貨幣(もしくはその代替物)の存在しない社会なんかほんとに存在するのか?」