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ある物理学徒、山浦への誠実な文系学徒からの応答。ーさしあたることについて、あるいは、さしあてることについてー

今から何ヶ月も前のことだ。ある日私は、山浦という友人に、無限後退について示唆されたことがある。今でも私はそれを覚えている。ずっと考えていた。メタのメタ。メタのメタのメタ。。。。そうやってどこまでも無限後退は続いていく。文系の分野からこの問題にどんな回答を出せるだろうか。それは多分こういうことだ。どの学問もどこかで無限後退を"いい""加減に"とめている。どこかで『全体』とすること。仮に全てを獲得しても、すべてを書けない。ページ数の制約という物理的な問題。自分だって世界だって無限だからどこかで諦めるのだ。大学生としては、レポートに締め切り日と文字数制限があるありがたさについて少し書いてみたい。書き終えていくことがなにかを書くということだ。粘土制作は粘土によって終わる。しかし言葉は滑る。粘土には可塑性がある。可塑性とはすなわち粘土の抵抗感があるということでもある。形を変えられるということは、変わる形があるということだ。では、言葉の持っている可塑性、すなわち、抵抗感、すなわち、言葉の粘土性を感じろ。これはカトリーヌ=マラブーが言ってることだ。円城塔という人が、コンピュータが現実そのものを計算で現出させ、そこで感受性を実現できたとすると、それは現実そのものとなるから、現実は無限なので、それは世界そのものと同じようにキリがない計算になってしまうじゃないか、ということは、そんな計算できるわけがない、という鋭い指摘をしている。つまり、インターネット世界は、擬似的な無限に過ぎない。インターネット世界を世界だと思ってしまうところに、そもそもの感性の鈍感さからくる誤謬があると言うべきだ。これはある意味で感性の愚鈍さであると同時に、"感性の鋭さ"でもあり、ある分野では重要な想像力なのだろうが、私はこれを否定する。現実を自分の身体に即して、しっかり掴めていない倒錯だからだ。この円城塔の指摘と、まったく同じ構造で、たとえば、『カントについてすべてを書くためには、カントのように考えるしかない。この世界を、カントを中心に繰り広がる世界だとして考えてみるしかない。自分であることをやめて、一度カントになるしかない。しかしながら、カント自身だってカントに関するすべてを書けなかった。つまり、彼だって自分のことをどこかで自分だとした。この言葉の極めて祝福的な意味において、『いい、加減に』書き『終えて』きた。つまり、どこかで自分という全体を枠にして、作品にして、締め切りに間に合わせてきた。そしてそもそも、私はカントではないし、カントにはなれない。』と言うことができる。そんな無謀な倒錯はそろそろやめた方がいい。この不可能性を超えることを、目指している人が多すぎる。ところで、有名な、意識の減算モデルとは、記憶にも敷衍することができる。それはどうやればいいかというと、以下のように考えてみてほしい。『思考の本質とは、差異を無視することだ。それはつまり、要約することだ。思考とは、切り捨てることだ。思考するとは、<さしあたり、同一パターンのように見える部分については思考しないということ>だ。』と。重要なことは、このように、いつも『さしあたり』『また今度』を意識的に行うこと。そうじゃなかったら、世界そのものと思考は同じになってしまう。そしてそれは出来ないので、絶対に病んでしまう。しかしながら、何かを書かねばならない。さてどうするか。自らの有限性を複数化すればいいのである。多重人格になるということだ。いや、ちがう。そもそも我々は既に多重人格なのだ。ある演劇、いや、オペラがあったとして、その千秋楽まで、すべての公演を見ることは時間的にも、金銭的にも、能力的にもできないし、次の公演と前の公演を比べることもできない。その公演を見ている間に、公演期間中にありうるすべての公演と比べて、そのクオリティを比較判断することもできない。その都度その都度、その公演を肯定していくことだ。よくある、ありがちな可能世界論のクソさは、『なにかを選ぶと、選ばれなかったなにかが消えると思っていて、その選ばれなかった選択肢が消えることが、その後悔が、むしろその選択を鼓舞し、駆動しているということだ。』言っておくが、世界にはこの世界しかない。いや、そもそも、この世界があるとすら私は言っていない。しかし、この世界自体が多重化していて、複数の世界が織り込まれている、とは言っている。いくつもの世界があるのでは、ない。よくあるタイプの平行世界論はマジでクソである。ネルソン=グットマンの非実在論は面白い。この世界もない。しかし、『ある』とした時、そのバージョンは重なり合っている。それが、私が先ほど言った複数の有限性を持つということだ。これは無限後退ではない。引き受けざるをえないその都度の認知限界に応じて、ものを調べろ、という人生論について話している。どんどんネットサーフィンするなということだ。それは無限後退だからだ。こういう複数の有限性の中で生きることを、環世界間移動能力という。世界フレームの切り替えと多重化。これが、多重人格である。多の中に一があると考えるな。一の中に多があるのだ。自分の多重人格性に気付け。{自分という無限:世界という無限}、こういう無限と無限が接する機会を大切にしていき、その都度、肯定していこう。これを自由間接話法という。浅田彰宇野邦一小泉義之檜垣立哉國分功一郎・千葉雅也のドゥルーズ・モノグラフィーがやってたのはそういうことだ。『構造と力』は人生論だ。何が悪い。人生論を冷笑するな。自分の人生に役立たない哲学や思想なんて、その方がむしろ何の意味もねぇだろ。おまえ、役にたたねぇもの読んでどうするの?かっこつけてんじゃねぇぞ。すべての本を自分の人生論として読むんでいいに決まってんだろ。それがドゥルーズの方法(自由間接話法)だ。これはエゴイズムではない。ホワイトヘッドのセルフエンジョイメントだ。アガンベンの自己享楽のことだ。ちょっとゆっくり考えてみよう。エゴイズムではないとは、つまり、他性と向き合うということだ。しかし、レヴィナスデリダみたいな責任とかは、正直、重いんだよ。めんどくせぇ。そうじゃなくて、他性と向き合っているのに、すべての存在者が自分を楽しんでるってことだ。ラカン曰く、享楽すなわちフランス語でジュイッサンスとは、ジュ=ウイ=サンスすなわち、『なにかの意味を理解する』ことだった。しかし、セルフエンジョイメントとは、フランス語ではなく英語だ。つまり、サンスではなく、ノンサンスを理解することだ。ここがラカンと違う。大震災は無意味なのだ。いや無意味ですらないということだ。アレクサンドリア図書館が燃えるということ。アトランティスが沈むということ。下意味だ。フランス語でアンフラサンスという。まったくの海のような状態。脳が事故で欠損すること。どうでも良すぎるほどのネガティビティ。これを鋳型にして有限性は仕切られる。この切断。もっと具体的に言えば、原稿が8000字に決まっているということ。身も蓋もないような切断。制限。これが無限後退を止める唯一の文系の俺からの答えだ。たとえば、このような、人間と相関しない、まったくのナンセンスを考えることができるとすれば、(私はそれにはかなり懐疑的だが、)カンタン=メイヤスーのスペキュレイティブリアリズムという理論が役に立つ。これ、すなわち、"人間抜きの哲学"だ。ヒューマンアクセスとはまったく無縁の、"それ自体としてあるもの"についての思弁だ。カントは所詮人間と世界のコーリレーショナリズム(相関主義)だった。人間なき思弁。『有限性のあとで』はそういう究極の実在論だ。誰にも見られたことのない"世界の片隅の花"についての思考だ。カント主義では、人間の絶滅と発生以前について肯定的に考えることができない。"下意味(アンフラサンス)"な生成変化についての思考がない。確率と偶然は違う。確率とは出来事がジェネレートする系があって初めて、その中で、測定可能なものだが、偶然とはその系自体がゆらぐようなカタストロフのことだ。震災とはまさにそういう出来事だった。震災がくる確率のようなものは、来た瞬間には、まがまがしく1になってしまった。あのような"まさしくナンセンス"によって、有限性は区切られている。分かったか?これで答えになっているだろ?俺の友、山浦よ。