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山浦にしか伝わらないフッサール概論。

『世界は自我を超越しているのに、なぜ与えられるのか。』という問いを、既に自然主義や客観主義の一派である科学は、問いではなく既に前提にしている。反自然主義の基礎付けはフッサールの仕事だった。フッサールは心と世界は真理によって繋がると述べた。意味がわからない。意味がわからないので、少しそれについて述べる。


なぜ意味がわからないかというと、そもそも、真理の概念こそ客観主義の元凶だったはずだからだ。しかし、ポストモダンにおいて、真理の概念が無意味になったというのは本当だろうか。んなわけねぇだろ。



信じるとは、真だとみなすということだ。スミレの花をみたとき、そこにスミレの花があることを真だとみなしているのである。真だとみなすからこそ、そのスミレについての会話ができ、そのスミレに触ろうとするのだ。真だとみなすことは、その世界に全幅の信頼を置いて、身をまかせるということだ。つまり、信じることは第一に推論的思考の前提になる。前提が正しいことをまず信じなければ、三段論法すら機能しない。第二に行動に不可欠の前提になる。真理を媒介して心と世界が繋がっているとはどういう意味かというと、真であるとみなすことを通じて、世界は現れるという意味である。これをフッサールの言葉で表象という。表象は昔々、観念という、まったくよくわからない中間項を挟んで説明されていた。しかしこれには自ずから、心の中の観念は実在についての本当のことを表現しているのか、心の中の観念はそれ自体で内的な真理を表現しているのか、といった表象の正しさを問う規範的な問いかけが内蔵されている。規範的とは正しさが何かに依存するということであり、何に依存するかというと、規準であり、その規準は外的事物の実在性なのである。しかし、観念は外部についてなんの主張もしていない。外部と自分を比較する判定すらしていない。これらの規準は文『赤い観念は実在の赤を表している』という文が担わされた役目なのである。心の中の観念にな、正しさも正しくなさもなく、それが表象と呼ばれるためには、真偽値を取れて、表象の規範的特性を成り立たせる文の一部として組み込まれる必要があるのだ。世界を表象する基本単位を文だとみなす発想、そして、信念は内容が真偽値を持つ文の形式で表現されるという発想こそ、フレーゲが最も強調した点である。ここに彼より速く気づいていたのは、ライプニッツとカントだけだ。どちらもドゥルーズの系譜である。



(フレーゲに言わせれば、文の意味とは真偽値のことであり、それを決めるのは語ではなく文である。ただし、フレーゲの表象はフッサールの表象と意味が違うので気をつけなければならない。フレーゲの表象は、主観的なよくわからないものである。ソクラテスは美しいと、プラトンの師匠は美しいは、意味すなわち価値が同じで意義(=思想=信念内容)が違う異なる文である。)


しかし主観側が真であると『思いなすこと』とはまた違う。ここが重要なのだ。真であるか偽であるかは、世界のほうから、決め方もろともやってくる。それに従うことしか出来ないのである。そして信じるからには、従うべき規範がともなう。フッサールによれば、スミレは、意識にそのときどきの位相で現出するが、スミレという事物それ自体を定義するものは、そのときどきの位相を超えて、より多くの隠れた現出を秘めているのだ。事物にはこの汲み尽くしがたさがある。事物はその表象と同一ではないが、その現れとの相関してその都度定義される。これがフッサールの主張である。これはバークリーやヒュームが言ったように、予測される条件に応じてさまざまに変化する心中の単なる観念の束だと言っているわけではまったくなく、じかにスミレの匂いを嗅いだり、そこにスミレがあるとみなす信念や、変化させたいという意図でもあるのだ。現れの汲み尽くしがたさを、我々はもう既に承認して、それに参与してしまっているのだ。


近代哲学は、表象を断片的な観念に担わせた。しかしながら、心と世界のつながりを形成するのは、むしろ、判断や信念や文だと言ったのがフッサールだったのだ。現代意味論の始祖フレーゲも似ている。表象の担い手は、心の中の感覚やイメージや体験ではなく、かといって、物体の電気信号でもない、『意味』という存在領域を成すことを確認したのだ。しかし、ふたりの相違点は、フッサールは判断や文や最も世界に対して直接的な知覚といえども、信念の志向性からは逃れられないと考えた点である。だから、文ではなく、文の内容を信ずる信念志向性を押し出してくる。ここがすごいところなのだが、知覚っていうのは、文になりようがないはずなのに、知覚にも真であるとみなすことの資格を与え返したのだ。


フッサールって、古代ギリシアチックなのである。心の探究は自然の探究であり、自然の探究は心の探究であると言っているわけだから。科学者はむしろ、自分もその自然の一部なのにもかかわらず、自然から自分の匂いを消し去り、純化した自然像を妄想してみて、今度はそれに自分をも統合しようなんてしているものだから、とってもバランスの悪いことをやっているのである。そんなことをするから、"心の独自性"なんてものがむしろ際立ってくるのだ。変なことをすれば変なものがでてくるのは、当たり前の話である。


ところで、フッサールといったら、有名なのは現象学的還元という言葉であるが、これは、意識の現れの領野への回帰という意味ではない。心と世界の結節点である真理によって解釈をされた存在として、世界を見出す手続きのことである。存在を疑うことができない純粋意識にまで還って、その意識が世界を構成する仕方を記述することだとも言える。しかし構成するとはなにか。悪名高きデカルト的基礎付け主義と何が違うのか、構成するという動詞の内実が分からなければ何にも分からない。



さて、術後を準備していこう。クオリアとはなにか。感覚質のことだ。赤い色をみて、それが青だとすることは全然できるんだが、その見えている色を見えていないことにすることはできない。その見えている色のことをクオリアという。これで何言ってんだお前と思った人は、海を見たときの解放感だと思ってください。AIに海を見せて、解放感を感じさせるにはどうしたらいいんだろうか。エラーになるほどの情報量なのだ。これは、ハードプロブレムと呼ばれているらしい。てかそれ、難問って意味やろ笑。諦めとるやないかーい。ただ、このクオリアフッサールの志向性に比べて弱すぎる概念である。というのも、海辺が眩しいから移動しようという文に山浦が同意して頷いたとすると、お互いの心の中で異なるクオリアが生じただけではないからだ。それよりむしろ、複雑な合理性システムが行動を可能にしている。あまりクオリアは関係がないのだ。『ここは眩しすぎる』という信念を持ち、そして行動する。そのとき、海の家についての信念、そこへの看板を見たという信念、看板はおおむね正しいという信念、信念を支える信念が複数あるはずなのだ。合理性とは抽象思考という意味ではなく、志向性システムのおかげで適切な仕方で行動できるという意味である。科学もこの信念なしにはありえない。実際、科学も含めて、全てが、疑いうるのだから。科学も自然についての信念システムである。問題は、その科学という信念システムが、自然についての最も正確な表象を与える、あるいは与えるべきである、ということを現代社会が科学に執拗に要求し過ぎていることだ。なぜ、小林秀雄が論じた『常識』『直感(虫の知らせ)』だって、たいていの行動を成功に導いている信念システムなのに、なぜそれらより科学のほうが正確な表象だと言い切れるのだろうか。どちらにも、一長一短あるというのが私の立場である。(というより、我々の感性は恐るべき速度で、身体が計算を成し遂げて与えられるとは考えられるのではないだろうか。)



信念(たとえ、本当でないことでも、なにかを真だとみなすこと)に代表される(他に欲求・意志・愛もある)志向性(意識が自閉しておらず、常に何かについての意識であり、誰かと共有できること)には2つの特徴がある。


①物理法則とは違うしかた(物理法則はどちらも世界の中の実在物でなければ機能しないが、人間の信念は嘘の予言でも信じれる)で、意識の外部へと向かっていて、行動と推論の前提になる。

②充足条件を世界へと投げかけながら世界へと向かう。ある信念は、内容通りだという意味で充足するか、そうでなければ充足されないという条件を世界に投げかける。


というか、意識を物理法則の担当領野と完全に分けるには、この比喩が失敗していることを示せば充分である。よく、意識とは流れのようなものだという比喩を聞くが、あれは完全に間違っている。流れが意識のようなものなのだ。意識を川の流れの比喩で説明できるのは、遠くにあったものが、現在のある一点に接近し、その点から遠ざかるという現在を中心とした秩序が既にあるから、であることに無自覚であってはいけない。現在がないと時間は流れないのだ。現在の期待があって、それが現在に接近し、過去へと現在において忘れられていくという現在中心の時間秩序こそが川の流れを可能にするのであって、決してその逆ではない。単なる移動は流れにならないのだ。


ということで、いわば、クオリアは科学を拒絶している、俺に言わせりゃよくわかんねぇ甘いもんだが、志向性のほうは、むしろ、行動を生み出す機能として、高等生物行動の科学研究の対象にすらなりうるのだ。というより、機能よりずっと面白い概念である。なぜなら、世界についての私の信念は、自分の考えが正しいことに理由を与える正当化の一部を成すとともに、他の信念との組み合わせに応じて、信念システムを更新したりする自己点検的なものだからだ。


今日はここまで。