猿でも分かるメルロ=ポンティ、あるいは如何にして山浦くんとの見解の相違を止揚するかー時間・科学・隠喩ー

私には最近気になっていることが3つある。




 

デリダが自らをも解釈とするほど徹底的な相対主義の闇の中で、あえいでいるように見えてきたこと。

 

⑵時間の流れについてだ。私がみたところ、時間が流れるためには3つの非存在が必要である。「かつて」「いつか」そして「この現在を非存在にする非存在」である。この3つがないと時間は流れない。流れるというのは川の比喩だがそれは明らかに失敗していることが分かるだろう。時間は現在があるから流れるのだから川には船を浮かべなければならないが、その船は流れと同時に川を進んでいくのだから時間は流れるわけがないのである。しかも、川には上流と下流があるが、時間において過去はもうないし、未来はまだないはずだ。要するに時間を川の比喩で説明することは「3つの不在」が不在であるために不可能なのである。つまり時間とは存在ではなく生成なんだよな。哲学って学問である限り経験の総体に依拠するしかないから、この問題は解決しなそう。だって経験そのものがもつ構造なんだもんこれって。一方で、詩人の言葉は永遠の現在において紡がれる。花を見るとき、花が自分を見ているような。意識は再帰的構造を取るから自己定位には時差が原理的に必要だ。コギトも無言のコギトであったはずなんだ。考えていることにデカルトが気づくのは考えた後だろ。

 

⑶科学(山浦くん)と哲学がどう和解するかだ。そもそもひとつだったのだから、和解できないはずはない。

 

今回は⑶のテーマで少し読書をしたので考えたことを以下に書いてみる。

 

身体図式とはなんだろうか。ことばが身振りであり、全身の振動が怒りという意味を持つように、身振りであることば(声帯の振動、内声)が意味を持つことである。「掴む」のではなく「指差す」ことである(乳幼児は指差せない)。いやヴィトゲンシュタイン風に言おう。手を挙げることから手が挙がることを引いたとき差が0になることである。ただその話をする前にまずフッサール現象学メルロ=ポンティの違いを明確にしておこう。現象学的還元とは自然的態度のうちに含まれている一般定立を宙吊りにすることで、意識から独立に、超越して定位された世界を遮断し、意識に従属させることでそれ以上遡ることができない純粋意識という始原的領野の獲得である。フッサールは以上のようなことを考えていた。しかし、メルロポンティにとって「還元の最も偉大な教訓は完全な還元が不可能であるということだった。」なぜなら「隅から隅まで世界と関係しているからであり」「何度還元を繰り返したところで志向の糸は断ち切ることができない」。世界という超越は確かに向こう側にあり、意味を分泌しつづけている。我々は小林秀雄ふうに言うなら「物はみない。物の名を呼ぶ。」ことによって意味が湧出する始原的な現場を取りこぼしている。だから、ことばが流通する場面の手前に身を置く必要がある。「科学はものを操作するけれども、ものに棲みつくことは断念している」からだ。メルロ=ポンティの、主張はゲシュタルト心理学の例を少し見れば容易に納得がいく。たしかに点を見るとき私は点だけを純粋に見るのではなく、背景を背景化している。ミュラー=リアー錯視においても長い線と短い線は長さが違うのではなく、次元が違うのだ。だから長さも違って見える。遠くに見える森の中で枯れ木の倒木だと思っていたもの(そこにはわずかな異和と緊張(相貌のきしみ)だけが予知されている)が山小屋であったことに気づいたとき、風景が一挙に再編される。個々の部分が連合され全体の意味が再構成されるのではなく(経験論はここを見逃した)全体から部分へと意味が再配分され全体の意味とともに部分の意味が共変する。世界はそれ自体あらかじめ動的で詩的な構造を持っているのだ。哲学は詩的であり詩は哲学的であり、古代哲学は詩と不可分であった。世界はそもそも隠喩的である。言語の恣意性は本当だろうか。岩石だけでなく意志もまた堅固でありうる。初夏の緑に、文字どおり「心が奪われて」初夏の緑を生きている。しかしながら、世界から「経験の次元」を引き算したものが客観世界であると言われると、科学との和解はいっそう遠のくように思える。そうではなくて【客観世界から生命のために光を引き算したものが「経験の次元」である】、とメルロ=ポンティは言うべきではなかっただろうか。少なくとも私にはそう思える。(いやベルグソンの影響をメルロ=ポンティは最初に強く受けているのだから、むしろなぜこの知覚の減算モデルを退けたのだろうか。)これは科学への敬愛を込めた私のラブレターかもしれない。十分な根拠はない。しかし、そう直感するのだ。これは経験世界の詩的さをいささかも損なうものではいし、かといって従来の唯物論でもない。唯物論は未・決断時における精神の自由や、超越論的意識を説明できないからだ。我々は本当に、世界に層として意味を重ねていくのだろうか。というより、減じていくのではないか。解釈可能性を段階的に減らしていく。それが知覚ではないだろうか。だとすれば、科学の観測器具、カメラ、これらがありうる知覚の中で最も純粋ではないか。もちろん「物体が知覚する」ということの消息は別に辿られる必要がある。しかし、そもそも人間も物体的基礎を持っているはずである。我々の知覚すら、物体(身体機械)の知覚だと言い得るということは見逃されてはならない。幻影肢だって、脳に向かう求心性神経を切断すればただちに治癒するのだ。ただ少なくとも、「客観世界は、あるが、経験不可能である」という現象学の立場は共有している。足し算か引き算か、それが問題なだけだ。その経験不可能なもの(客観世界なるもの)が経験そのものを描き取ろうとすることばを侵食しているので、一旦それを遮断して、経験の襞をかたどる言葉が探し求められなければならないという現象学の基本プログラムにも同意できる。