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猿でもわかるジャック=デリダ。あるいは、なぜ私は山浦くんに、それ固有の表現形式を持つはずの映画を、言語化することを強いたのかーあるサタニストの弁明ー

脱構築とはなにか。 


一言で言うと、


現象を確固不動の特定の本体へと還元し凝固し「繰り返そ」(=不在者への開口部を塞ぐこと、反復とは違う)うとする力、すなわちみずからを何らかの本体の現象として確立するにあたって自覚的であれ非自覚的であれ、それに訴えて本体を現前せしめた幾つかの力、その由来を明らかにすることによって、その力の全面的な効力を失効させ、新たな相貌で反復させることでアプリオリズムに風穴を開けること。


である。


しかし、おそらく絶対に一言で書いても分からないので以下に概念の内容を明らかにしていく。

 


現実とは、表現である。世界とはテクストである。テクストであるからには不在が世界の外部として亡霊のように纏わりつく。痕跡とは不在のものの反復である。繰り返しではない。何かが反復の下で立ち現れるとき本体は不在において現前し、現前において不在である。重要なことに反復とは独立にそれ自体で存立する本体などないが、本体と現象は間接的に重なっている。そして差延とは痕跡の到来の仕方である。本体と現象の分割線は瞬間において引かれる。瞬間には追いつけない。世界のうちにはもうすでに差延の結果としての差異に基づく何らかの形象が書き込まれている。しかしそれは最初に与えられるのであって、それでいて何かの痕跡でもある。最初のものなのに、いつもすでに自己の反復であるという意味で初めから二重化されている。三角形なるものにはじめて出くわしたときも、その三角形は「三角形」の中のひとつの三角形であり、はじめから反復されている。初めて出会う赤色も、それが赤色であることを知っていないと赤色だと同定できない。初めて出会う概念すら過去形である。「○○って知ってる?」に対する応答、「知ってるよ」は現在形に見えて完了型である。真理も赤色も「もともとそうだった」という既在性をその中核に担っている。最初のものがすでにその当のものの反復であるとはそういう意味だ。その代表例は書かれたものである。エクリチュールとは「本体が不在の痕跡のこと」だ。エクリチュールはいつも脱構築できる。私たちの世界は痕跡に満ちているがいつどこでどう書き残されたのかは不明なのだ。現象のすべてがエクリチュールなのである。声もそうである。創造者としての神がいるとすれば人間もエクリチュールである。アカデミズムや大学や制度も法もそうである。マルクスの物象化への警鐘も不在の本体への信頼に対する警戒であった。人々は物象化によって現象から目を逸らし痕跡を残して立ち去った不在の者に対して暴力を振るう。




ところで、そういうエクリチュールを読むとき、心の中で、自分の声を聞いている。「声」は内言というしかたかもしれない。痕跡のみが存在し本体は痕跡が存在するためには不在でなければならない。現象のたびごとに本体が失われることが世界が現象するということである。何かが読まれうることの条件は作者が死ぬことである。だから、現象を生と呼ぶなら、死は生の条件である。なにものかが何かになるためには死によって切断されねばならない。痕跡は再び痕跡を残すことによってしか現象しない。それがなにかを読むということだ。読者は骸の蘇生なのだ。何かを読むとき内声というしかたで自分は自分の声を痕跡として聞いている。



読むことは書くことである。なぜなら、読むときにも脳は痕跡としてシナプスの発火パターンを脳内に刻んでいる。それがエクリチュールなのだ。黙読とは音読のことだ。絵画を見ることはその絵画を表現することだ。映画を見るとはその映画を見ている自分を表現することだ。現象することは現象する当のものがすでに自己自身の痕跡として二重化された反復であるばかりでなく、現象を受け取るものの下にもその痕跡を残すことで、反復は多重化されていく。最初のものですらそうであるところの反復は言語を媒介にして自己増殖していく。音、匂い、文字は言語的形象(意味)としてあらためて現象へともたらされる。言語は新たな感性的次元である。これによって言語は巨大な時間スパンの中でのほかの感覚的次元に反復可能性を与えるのだ。録画や録音は視覚や聴覚のエクリチュール化である。物質とは骸であり、しかしそれを介することで生命がはじめて復活するような生命の分肢である。カントを読むたびにカントを初めて読むことになるのである。書き手もまた自分が書いたものを読んでいる。というより、読みながら書いている。痕跡が何を言い得るかは、痕跡自身に問うしかない。作者の支配から作品は切り離されている。だから、誤読の可能性を擁護すべきである。【ただし誤読も正読も痕跡からのみ生じていなければならない。】作者が本当に言いたかったことも現象としてしか姿を現さない。痕跡が何の痕跡なのか、それは幾何級数的に散種する。タンポポの綿毛のように解釈は散種する。



ところで、現象が絶えず別の仕方で回付しうることを示すことを脱構築という。真理の既在性に回収されまいとする運動である。脱構築とは到来することが私の下で己をあらわにするのをじっと待つことであって、好き勝手に解釈することではない。前述のとおり、あくまで依拠するのは痕跡そのものだからである。世界という文学テクストを別の仕方で読むことである。まるで建設が解体でもあったバベルの塔のように、脱構築はまた新たな現象を構築するだけなので終わりがない。その脱構築された現象も脱構築されうる。脱構築は事実に関わる限り脱構築されないのだ。現象だけが別の仕方でありうるのではない。本体すらも別の仕方でありうるのだ。あまりにもある本体からの振れ幅の大きい解釈は、今度は違う本体を構築するからである。脱構築は野心的で、かつ控えめな運動である。なぜなら、自分を文学(刻みつける運動)テキスト(文字)であるということでもあり、自分もひとつの解釈であると認めることでもあるからだ。たえず転変する現象はその都度異なる本体を指し示してしまう可能性を孕んでいる。



ところで、世界はいつも同じものの現象を反復しようとする。これを傾向性という。これは繰り返しであって反復ではない。これによって暴力が生じる。暴力とは2つある。1つめが、現象が反復ではなく繰り返し(レペティシオン)にされることだ。2つめが、本体として規定することそれ自体がもつ暴力である。後者は構築することの暴力であるから脱構築すらもこれを免れない。現象の構築にすら暴力の契機があるとすれば、どんな現象も暴力になりうる。



ところで、脱構築とは正義のことである。応答することはすでに肯定である。正義とは「あらゆる他者の定位に先立つ肯定」の二回目の肯定なのだ。他者に対して「はい」と答えることは「はい、そして、はい」と答えることに同義である。一番目の肯定は他者(=別の解釈:本体と現象との間の開口部の不在者)の定位であり、二番目の肯定が脱構築である。他者の排撃やヘイトスピーチですら1度目の肯定である。なぜ二回目の肯定が正義なのかというと、砂場で土塊を砂に砕くことは暴力ではないからである。正義とは他者が他者であるがゆえに尊重することである。正義とは他者が抹消されたことを抹消されたものの抹消の痕跡すなわち灰において証言することである。正義を証しだてしようと思っても、その発言も発するその都度私が死んでいく以上、だれも確証してやることができない。だから正義は徹底的に秘匿される。脱構築脱構築できないのは正義が秘匿されているからであり、秘匿されているというのは「秘密がある」ということではなく「秘密がむしろない」ということだからだ。その秘密について、証すことが原理的に不可能なのだ。正義は何者(になる前である。)でもないからこそ脱構築できないのである。



世界がテクストである以上、私は夢を見ているかもしれないのだから、私自身も他者の全面受容と肯定が本当に事実なのかを知ることは原理的にできない。正義について語ることはできても私が正義であると言うことはできない。できるのは可能性の示唆だけだ。だからこそ証言するのである。そして正義はただちに証言しなければならない。なぜなら、この私以外にそれを証言することができるのは誰もいないからだ。そしてもしそれを今ここでただちに証言しないならば、その怠慢は正義を踏みにじることになるからだ。この意味で「正義は切迫している」。正義はいま・ここに対する責任を私に課すのである。ということは、唯一単独の主体者に普遍的善を指定する法など存在しない。法は反復ではなく繰り返しを要求するからだ。唯一単独者は証言を決定し(内実を定め)決断(行う)することをその都度求められている。今ここで戦争に反対しないことは賛成することになる、溺れる者を救わなければ、それは溺れさせるというひとつの行為に踏み切ったことになる。状況はいつも切迫している。正義とは単独の行動における単独の行為である。正義は存在しないが、そのような、闇の中での跳躍のような行為のみが正義たりうる。脱構築に終わりはないとはそういう意味である。ブランショのいう「中性的なもの」とは、このような決断の場面で中間項にとどまりえない受苦を表現しているのだ。決断が不可能なところにおいて決断するからこそ、そこに責任が生じるのだ。正義とは一個の狂気であり、暗闇の中で跳躍することである。だからこそ正義(脱構築)の脱構築不可能性を法の脱構築可能性から区別してやらなければならない。法は書かれたものであるからエクリチュールであり、いつでも脱構築可能なのである。そして脱構築されなければならない。正義(脱構築)は法を見直す原動力なのだ。