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なぜ神は存在しないのか。あるいは、余は如何にしてサタニス徒となりし乎。


まず、「神が存在しないことは神の定義に矛盾する。なぜなら神とはもっとも実在的な存在者であって、定義より存在するからである。」というアンセルムスの神の存在論的証明は誤謬である。何度でも強調していいことだが、概念から存在は導けないからである。これでは証明ではなく、「三角形は3つの角を持つ」と言っているに等しいからだ。よって不可である。ところで神の存在を証明する方法は三種類しかない。存在論的証明(上記)、因果律証明(宇宙論的証明)、目的論的証明(別名自然神学的証明、すなわち素材を法則によって秩序付ける設計者というだけではなく素材そのものの創造者としての神)の3つである。後者の2つは最初の存在論的証明に帰着する。というのも、かりに「世界の必然的な原因としての神」もしくは「現にある世界の合目的性と秩序と美の起源としての神」という概念(たとえば「時間という条件を欠いた永遠」などの神学による定義)が推論されるにせよ、その必然的な存在者という概念からその存在者がまさしく存在することが導けると主張しているからである。そして概念から存在は導けない。後者の2つは神の存在論的証明を既に前提しているのである。あくまでスパゲッティモンスターと同じく神は蓋然的である。最高善としての神の存在は実践的理性の要請(倫理が意味を持つようにするため)であるに過ぎない。

 

 

では純粋理性の批判とはなにか。理性の合法的な要求を擁護し、根拠を欠いた越権を拒絶することだ。理性に「美」として与えられるのは、非現前の現前を不可能性との境界において呈示することまでである。どういうことか。そもそも理性は拒むことも答えることもできない問いを課せられている。その問いとはアンティノミーだ。アンティノミーとは経験的溯源の地平線である。つまり、世界は「現象の総括」(公園の広さはたとえば歩幅を基本単位としてつぎつぎに足しあわせて構想される。)であって空間と時間という形式とともに、経験的な溯源のその都度拓かれてくるので、ある地平線にたどり着くたびに新たな地平が所与になるということだ。限界の経験に接近すると経験の限界をいま超越しつつあるものが兆すということだ。経験を離れた世界は「存在しない」ということだ。つまりは無限(理性の理念)が経験の所与(感性の対象として与えられること)となることそれ自体がまさに矛盾である。世界は経験に「課せられている」のだ。世界の境界と経験の限界はそのつど覆いあう。経験の限界はそのたびごとに世界の限界である。この限界を「理念」という。中でも神にかかわる理念は「理想」という。時空は超越論的には主体の観念であり偶然(そうでなくてもよかったのでありその存在を自身以外の何者かに負っている。)であるから、現象の総括であるところの世界内のいっさいの存在者は経験的に条件付けられているから偶然的である。しかしながら、神は世界を超越しているので世界の外部に必然的な存在者、世界原因としてある。しかし世界外部の世界原因もそれが作動する時点では世界のうちに取り込まれ、偶然的なものとなる。ゆえに世界の内部に世界原因としての神は存在しない。神は現象ではなく必然的であり叡知的であり超感性的である。また現象の総括である世界には経験的溯源を超える外部は存在しない。

 

 

ということは、時空は経験的には実在的であり、超越論的には観念的なものである。これこそが合理論と経験論の調停であった。経験的にはいっさいの対象はかならず空間と時間のなかで経験される。つまり時空は超越論的には物自体に帰属しない。経験論的には物自体に帰属する。前者を超越論的観念性、後者を経験論的実在性と呼ぶ。だとすれば存在の条件が時空なら神をどうその条件から除外するか。カントはここに細心の注意を払った。時空が内外的な直観の条件に過ぎないことにしたのである。これにより神は世界を超越する。(初期のカントは、神は空間と時間の無限性としていたるところに現前すると考えている。つまり超越論的観念論はカントの転回を経て生まれたのだ。)カントにとって神は超越するが、その存在証明は不可能である。なぜなら、神は存在の形式を取らないからだ。つまり、両義的な意味で、はっきりと、「存在しない」のである。