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猿には絶対に分からないハイデガーの基礎的存在論、あるいは存在と時間についてー存在の意味を求めてー

自分が存在していることは明白である。

なぜなら、デカルトのコギトがいう「私」とは、あの場合、私の存在のことだからである。(途中からデカルトは「私」という意味内容を「思考すること」から「思考するもの」に変えてしまっている。『省察』の133ページ、『何かわからぬ私のそのそれ』参照)

存在と時間は、存在論と人生論の話である。まず前者。存在に関わらないものなどあるだろうか。虚構すら非存在として存在に関わっている。

後者も実は同じである。人生論とは限界状況における存在論のことであるからだ。

ハイデガー哲学とはなにか。


端的に言っておこう。


「現存在が自己に出会うこと」

「目覚めること(開示)」

「存在の意味の解明」

「あるという言葉の意味の探求とあるという動作の意味の一致」

「結論を先取りして円環の道を行くこと」

「正解と手を切り、途上であること」

「自分が誰かをはっきりさせないこと(本当にこれでよかったのかと絶えず問いただされること)」

「隠れている根本を開示すること」


である。




問題がないとき、にもかかわらずそれを徹底的な破壊(存在しないほうがよいという答え)も視野に入れて問うこと(本来的かどうかを問う疑いの光)が人間の自由であり優位だ。逆にいうと、自由でなくなることはできない。だから、決定的な決断は自己を喪失しない限りできない。



ただし非本来的であってはいけないとは言っていない。すべての人に本来と非本来の2つの次元における自己があるが、「本来の自分を知りつつも非本来の自分に逃避している」もしくは「その区別すら知らないがために事実上問いから逃避している自分」というのとは別に、「その区別すら知らないがために事実上問いからたまたま逃避していない自分」もありうる。自己逃避をするなと言っているわけではなく、本来と非本来の極間でのアドホックな揺れ動きのなかでの自己の位置づけの問題である。



ではそもそも逃避とはなにか。生きている限り背負いこむはずのものを手放すこと。これを自己喪失といい、いつもその可能性がある。どこでか。大衆においてである。ダスマン(状況の中で泳いでいる、周囲と歩みが同じとき)、世界内存在においてである。しかし本来的な自己喪失もある。我を忘れて「他者」や理念のために尽くすときだ。後者の自己喪失があることはあまり知られていない。世間並みであることも熱中も自己喪失である。しかし自分と存在とのこのルーズな関係こそが人間が選択の自由に対してひらかれているということでもある。



人間は自由であるとは、俺はひとことも言ってない。選択の自由という姿をとって自分という場で起こる出来事に対して開かれているというだけである。なにかが起こりうるということ。そしてそれに対してオープンであるということ。これが人間に許された自由だ。選択しているのではなくあとになって選択したことがわかるのだ。「可能性にたいしてひらかれた形でしか生きていけない」という意味では不自由でもある。



ところで、ハイデガーにおいてしばしば問題になることだが、理解とはなにか。予期と検証の間の往復運動であると捉えている。アラビア語のようなものを読むときにアラビア語「として」とることである。我々は可能性に開かれた存在であるから、たえず先行的な理解を投錨してそれが対象のほうからまた投げ返される運動が理解である。この運動の止まった状態を逆に理解と呼ぶことがある。



現存在とは可能性のほうから自分を理解する、投げかけることで獲得された可能性を生きる存在者である。


ドイツ哲学の強みは言語に対する絶対的な信頼である。解釈学的な手続きもこの流れから来た。意味とは体験である。存在の意味は各人にひとつしかない。言葉の意味とは生活のなかで体験することだ。つまり、ハイデガーは言語と行為で別の側面として見ようとはしていないのである。


では眠りとはなにか。不在であると同時に現に存在すること。実は「ある」の意味を半ば知っている。自覚の手続きが問うこと。


世界に投げ込まれた存在としての自分の偶然性は自・存の2つの次元で現れる。自分でないことがあり得たこと、存在しないことがありえたこと、である。自存には他者と不在が隠れていて、この2つの否定生によってむしろ支えられている。自存は他と不在に支えられて可能になる。これが自存の持つ根本的な危うさであって、ここに気付くのが不安である。


世界はすべてのものの切っ先が自分の世界に向かっているような世界の在り方を呈する。その都度の状況的性格が世界の内容を決める。その世界の外には地としての「環境」がある。そして自己は存在に開かれているから、他者の世界と結びついた共同の世界もある。「私が」見るのが世界なのではなく「私にとって」「間接的に」現れるのが世界である。


安心にひたっているときですら、生きるとは気を遣うことである。客観的中立的な世界がまずあってそこに意味を与えていくのではない。世界は最初から便利であったり不便であったりするのだ。気遣いとはある存在がその存在なりの姿を保つようにすることである。ハイデガーの世界とは自分にとっての世界でありながら自分が中心となった世界ではない。なぜなら気遣いによって世界は引き寄せられているからだ。「一方が他方の中にある」のではなく「住まう」のである。「故郷」である。



空間になにかがあるという事態には2つの次元がある。存在的レベルと存在論的レベルだ。前者は使用条件による物の配置(テーブルは屋外なら椅子になってしまう)だが、後者は自己発見(あちらからこちらへの方向付け)である。



孤独になるのは「こちら」ではなく「あちら」が与えられないから。「こちら」は「あちら」を介してしか確認できない。つまり、世界内存在の世界は、はじめから不安定で依存的な構造なのだ。たとえば「いじめ」はこの構造をつかって成される反復的運動である。いじめはある空間を共有させることで現にそこにいるにもかかわらずそこに住み着くことができなくする。つまり「こちら」を排除するのではなく「こちら」を押しつけることによって成立するのだ。しかも「あちら」は実は見せかけであって本当は不在なため、「こちら」の裏面としての「あちら」しかないのである。被害者は空虚な「こちら」を押しつけられるのだが、押しつけてくる方の「あちら」も実は空虚なのである。空虚に耐え難い苦痛を感じるのが被害者の側だけであることを利用した暴力なのだ。存在の構造そのものが「いじめ」を可能にしている。



今述べたトピックたちからも明らかなように、存在の問いはいつも円環構造をとる。自分があらかじめ可能性として投げかけたことだけが可能性であり、「自分」とは「自分にとって」という間接性に過ぎない。唯一円環を抜け出す手がかりは、我々が不可避的に気分の受容体であることである。到来する可能性としてしか受け止めることができないものが死である。良心とは自分の存在の内部に完成の可能性が眠っているからである、良心の声を聞け。



時間とは到来するもの(マナー、身体、言語)がとる形式のことだ。存在の意味とはではなんだったのか。時間性のことである。我々は自分の存在の内に様々な時間を抱え込んでいる。そしてそれによって存在が到来するのを可能にしているのだ。語る者は現在にいても、語られる言語は時間の流れの中にある。身体には器官それぞれの辿った歴史がある。脳と呼吸器の歴史は異なる。服装には社会の辿った歴史が刻まれている。存在するとは時間性を抱え込むということだ。我々一人一人が途上に終わった『存在と時間』同様、存在論の途上にある。