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猿でも分かる有徳の無神論、バールーフ=デ=スピノザ、あるいは、自由にものを考える無神論者は不敬虔か。ー我が良き友にして聡明なる物理学徒、山浦くんからの訴追を逃れてー

スピノザユダヤ人に追放されたユダヤ人である。無神論は白い目で見られた17世紀に、彼はいかなる宗派にも属することはなかった。オランダ人なのに、あのリベラルなオランダ共和国においてすら厄介者扱いされた。ポルトガル語が堪能で、学校ではヘブライ語を習い、ラテン語でものを書き、オランダ語で人々と会話し、フランス語とイタリア語が読めた。



オランダといえば、最強画家レンブラント、最強の国際法学者グロティウス、そして、フェルメール、と同い年なのがスピノザたんである。この国には、ジョンロックもいたし、ホイヘンスさんもいた。ピエールベールさんもいた。めっちゃいい国である。このちょーリベラルな国で、スピノザ無神論扱いされて禁書になった。スピノザにブチ切れたのは、リベラル陣営だったことは面白いね。(ファン=フェルト=ホイゼンさんとか左派カルテジアンやけど、スピノザのことめちゃめちゃ批判したからね。)


※以下の文章は、俺がいくつかの入門書を読んで、ある友人に送られた書簡という形式をとって、スピノザを紹介したものをここに載せたものである。この文字たちが、ネットの海の中を漂いながら、いつかきっと、誰かの笑顔になることを願う。


スピノザの書いた本の序文には、"バカな民衆が夢から覚めるとは思わないからこの本は別に民衆は読まなくていいです"って書いてある本もあるからそりゃブチ切れるよな。


スピノザってヤン=デ=ウィットさんっていうリベラル政治家がリンチにあって殺されたとき、家の前で『この上ない野蛮人どもめが!』って書いた大きな紙を貼り出そうとして、住んでた下宿の主人に、『さすがにそれはやばいよスピノザさん』ってとめられてるらしい。最高にかっこいい。あんたかっけぇよまじで。



あと、他にも本の中で、"『哲学は神学のはしため』とか馬鹿げたこと言ってるやつらはこの本を無視してください"とか書いてあるからね。まじ最高だからねスピノザ!神学と哲学を分離してんじゃねぇよって話です。(分離じゃなくて"両者は永遠に無関係です"ってんならええんやけどなぁ。まぁこれについては後述するわ。)


なぜかって?


だってさ、哲学と神学を分離したほうがいいよ派に言わせれば、悪魔ってのは比喩なんだろ?そんで、天使は、理性の及ばぬ神学的真理なんだろ?


え、なんで悪魔は比喩なのに天使は比喩じゃねぇの?



え、なんで天使が比喩で悪魔は理性の及ばないくらい正しいことじゃだめなの?


え、なんで、コーラをペプシにしたり、水の上を歩いたって話は、イエスのすごさを表すメタファーなのに、キリストが死んで3日後にゾンビになった話は、神学的真理なの?


メタファーとか言い出すなら、キリスト様が死んでから復活した話も別にメタファーかもしんねぇじゃん。それをメタファーっていうと聖書全体のストーリー展開に影響でるから譲れないとか舐めたこといいやがって。


それズルくね。


どっちが真理でどっちがメタファーかは、なんで神学に有利に決められんの。だったら復活だって神のすごさを示す隠喩かもしれないじゃん。 そうすると次のようなことを言うやつがでてくる。



『哲学と神学を分離したほうがいいよ派は、なんでもありな玉虫色のことばっかいってんじゃねーよバーカ!聖書なんか別にじゃあもうなくても別にええやないか!』



スピノザはこういうデカルトちっくな急進野郎から聖書を、そして、デカルトのボンサンス(いい具合にチューニングされた理性)を、守りたかったのである。



(山浦くんへ。というかさ、マジレスするとさ、"奇跡がたまに起きるからこそ神様がいることが分かるんだ"とか言うひとっていまだにたくさんいるけど、実際、神が自然法則を無視して、なんでも好き勝手にまさしく超自然現象を起こしうるとしたら、それって、逆にいうと、すべてのものが疑わしいってことやからな。だって自分の認識ですら神は歪められるんだから。だとしたら、そういう奇跡とか信じてるやつが最終的に行き着くのは無神論なんですよ。だから、カトリックにおいては神秘主義のほうがよっぽど危険思想なんです。あたりまえだけどね。)


ところで、


『田中くん、なんでも自由でいいのかな。』


とかいってくるチキン野郎には、スピノザは『いいにきまってんだろ!』と言うだろう。"神を人間ごときの想像力に置き換えるな!軽信を信仰に置き換えるな!"っていうのがスピノザのクッソ論理的なメッセージである。考える自由が敬虔を損ねるわけねぇだろ!


あのね、聖書ってのは基本的に理性に矛盾することがめっちゃ書いてあるわけじゃん。で、だけど、聖書は正しいっていう前提で読むわけじゃん。だからスピノザみてぇな天才が必要なわけ。ほんとキリスト教ってスピノザみてぇな天才の活躍に感謝すべきだよな。それなのにスピノザ無神論で禁書にするバカどものバカさってヤバくね。


じゃあどうするべきか。


まぁ要するに、まずは聖書が全部真理だってのをやめようぜってことです。文献学的にみりゃあ聖書全体には複数の著者がいることは分かってて、実際矛盾だらけなんだから、『分からないからすげぇんだ!』とかいうのをまずやめようぜってのがスピノザのアイデアです。


キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』を見て神を見ちゃうみてぇなやつにスピノザはブチ切れるってことです。


これからふたつのぶっ飛び聖書解釈を紹介しちゃいます!


モーセが『神は火である。』と言っているから、聖書に一字一句矛盾はねぇから、神は火なんだけど超自然的な火だから普通の火じゃねぇんだよ!とか言い出すのが、神学のやつら。代表はアルファカールさん。超自然的解釈ってやつです。


②同じ文、『神は火である。』を読んで、『聖書には矛盾があるようにみえるけどそれはメタファーだから、神は火なんじゃなくて、火っていうメタファーなんだよ』が哲学のやつら。理解するには哲学の理性でおkなやつら。代表はマイモニデスさん。急進カルテジアン解釈ってやつです。


じゃあスピノザはこの両者のぶっ飛びをどうやって調停したのか。ちなみに、俺が"ぶっ飛び"とか言って、汚い言葉を使うことで、スピノザのとっても繊細な哲学を汚い言葉で汚してるだろとかいう批判は俺にはあたらない。なぜなら、スピノザはこいつらふたつの立場を、『急進デカルト主義は理性をもって、超自然主義は理性なしをもって、どちらも狂っている。なんと滑稽な敬虔であろう。』って言ってるからだよ。


以下で見ていこう。


スピノザの主張はこうだ。銀河も地球も人間も石ころも神である。"祈りの神"だとか、"裁きの神"だとか、そういう人格神とかいうのはマジでよくわかんない。神とは自然のことである。神とは宇宙のことである。神、あるいは自然には目的もない。ただ自分自身の必然から存在し、一切を生み出しているだけだ。全ては必然であり、宇宙それ自体が神なんだから、神が異なった宇宙を作ることなんてありえない。なぜなら、神はひとりだからだ。だから最後の審判なんか絶対ないよってことです。なぜなら、審判もなにも、すべては必然だから。スピノザユダヤ人だけど、別にユダヤ人が神に選ばれてるわけでもない。どんな教義が真理と合致するかなんてどうでもいい。なぜなら、所詮は教義なんて人間の想像力の範疇にしかねぇし、別にそれはイスラームだろうが仏教だろうが関係ねぇ。これがスピノザの主張である。



スピノザの神は別に命令とかしねぇ。神あるいは自然についての知的認識が、われわれ自身のコナトゥスを最大化させ、自己肯定が至福に導くのである。



じゃあ、てことはさ、スピノザの神は人格神である聖書の神とは明らかに矛盾してるわけだが、じゃあどうやって聖書を見てたんであろうか。実はものすげぇシンプルで鋭いんだわ。てか、宗教をスピノザは肯定できんの?



スピノザ曰く、聖書とは服従と敬虔を教えているだけの矛盾だらけの書物である。目を覚ませという。聖書が全部正しいっていう両者①と②の前提がそもそも間違ってんだわ。聖書は思弁的真理なんかなんも知らないで、にもかかわらず、ちょっとだけ、何らかの正しいこといってるわけ。



聖書は神がどうやって世界において働くか、作用するかみたいなことを教えてる本じゃねぇんだから、そこにそれを読み込んでんじゃねぇよって話。


"解釈"とか"裏の意味"とか言ってんじゃねぇよ。聖書と理性の二者択一をせまってんじゃねぇよ。どちらも"そこそこ"正しいんすわ。


聖書ってのは言語なの。言語ってことは、意味なの。真理と意味は違うの。おk?ってことです。


つまりどういうことでしょうか。


『神は火である』ってのは、神は火であるっていう言葉なの。別にそういう文字が紙に書いてあるってだけ。だから矛盾じゃないじゃん。『山浦くんは田中である』っていう言表表現は意味としては通ってるだろ。疑わしいけどね。


なんか、聖書によると、ヨシュアってひとは太陽の運動を止めたことがあるんだけど、いや別にそういうストーリーは別に言語としては書けるだろうってことです。


いやべつにそんなこといったらスターウォーズだって嘘だからね。宇宙空間でビームの音とかしねぇから。でも、べつにそういうスターウォーズってあってよくねってことです。


なんでかって?


だって、スターウォーズ面白いから。



で、スピノザは、預言者を『預言者は、無知であり得たし、事実無知であった。』って言ってる。かっこよすぎ。


まぁ、ていうかさ、マジレスすると、預言者は無知だからすげぇわけよ。なんで預言者は預言できるのか言えたらそれ多分嘘じゃんだって。


理由も知らないのになんか知ってるからすげぇって話やろ。だから、預言者って無知なんすよ。それでええやん。啓示ってのは外部から来るんすわ。


まぁ要するに、


"ヨシュアが太陽止めれるけどその理由はしらねぇよ俺は人間だから派解釈"も間違ってるし、"ヨシュアは太陽止めれないけど、止められるくらいすごいってことだよ派解釈"も間違ってるってことです。



その理由を以下に示します。



だって、もし"超自然的解釈"が正しいとすると、じゃあそういうぶっ飛び解釈ができねぇやつの方が人口の99パーセントなのになんで預言者はそんな分かりにくいこというわけ。てか、なんでそんなぶっ飛びなこと大ベストセラーの一般書である聖書にかくわけ?もっと分かりやすく言えよ。


はい矛盾。


もし、"ぶっ飛び理性解釈"が正しいとしてもおかしいやろ。だって、なんで大ベストセラーの一般書であるバイブルにそんなぶっ飛びメタファー解釈ができる人しか読めねぇような回りくどい言い方するわけ?


はい矛盾。


スピノザは、"聖書は一般書"ですって言いたかったんだと思うんだよね。すっげぇ売れてる中公文庫みてぇなもんです。



くそ難しく言うと、スピノザは、真理条件ではなく主張可能性条件を問題にしてるってことです。


だから、聖書のメッセージってのは、スピノザによると、マジな話、一文に要約できる。



『あるところに、すごい、いい人がいて、神の方からやってきて、神のほうからいろいろ教えてくれて、それは要するに、神を愛して他人を自分のように愛してくださいってことでしたってことでした。』



はいこれ聖書↑。



これを言語学的にすげぇまわりくどいお話にしたのが聖書だってことです。ヨシュアが太陽の公転とか自転を止めれるとか、ペプシを頑張ればコーラにできるみてぇなマジ矛盾がたくさんあるのは、スターウォーズのプリクエルにおいて自分で頑張って作ったシースリーピーオーをアナキンスカイウォーカーが新たなる希望になったらすっかり忘れてるのと同じだし、新たなる希望においては"お母さんは優しいひとだった"とか言ってたプリンセスレイアが、なんかお母さんの子宮から飛び出した直後にお母さんであるパドメアミダラさん死んどるから、優しいかどうかなんてお前にはわかんねぇじゃねぇかっていうのと同じってことです。


ほんとかよwって思いましたか?



スピノザも神学政治論の下巻でこう言ってます。引用します。クッソ面白いのでここだけ原典読んでください。


『聖書そのものからわれわれは、何らの困難、何らの曖昧さもなしに、その主要教義を把握しうる。それはすなわち、神を何ものにも増して愛し、隣人を自己自身の如く愛するということ、これである。』



これである、どーん!


スピノザはこんなことも言ってます。


『たとえ聖書に矛盾が多くあっても、それを受け入れるものが虚偽であると知らなければかまわない。さもないと、その者は必然的に反逆者になってしまうだろうから。』



要するにどういうことか。



神が火であろうが、霊であろうが、目に見えない存在であろうが、そんなことは信仰とはなんの関わりもない。どんな風に神を解釈するかはそれぞれ独自の権利があっていい。ただ、信仰にも文法がある。日本語を喋るからには、なにをしゃべってもいい。スターウォーズを日本語吹き替えでやってもいい。でも、日本語の文法を守らなきゃいけない。もし日本語の文法を守らないと、自由にスターウォーズすらできない。だから、それと同じように、正義と愛を行う敬虔なひとである限り、そのひとは神に服従していることに定義上なっちゃってて、神は唯一であり、お手本であり、普遍的であるためにいたるところに偏在し、最強であり、最高であり、服従するひとは救われるしそうじゃないひとは地獄行きだし、地獄行きなひとも悔い改めれば天国チャンスがワンチャンあるっていう文法で聖書の内容を書かざるをえないし、読まざるをえないよねってこと。


ちなみに、スピノザはこの文法には従ってない。なぜなら、スピノザの神は、別にお手本でもなんでもねぇから。つまり、聖書の人格神を、信じてるってことは、そこから必然的にある文法を信じてるよねってことと同義ってことがスピノザは言いたかった。つまり、難しく言うとさ、スピノザは聖書を構造化してやったんだわ。それがなければ聖書ではなくなり、それがあるものは必ず聖書であるってことです。聖書がたとえ真でなくても正しい語り方ってやっぱりあるわけよ。どんだけスターウォーズが科学的に嘘っぱちじゃねぇかって言ったって、スターウォーズは物語として正しい語り方してるわけよ(とくに4作目はな。)。そこなんすよね。



もっと分かりやすくいうと、敬虔なひとはそれだけで敬虔ですってことです。ユダヤだろうが、イスラームだろうが、理性に従う哲学者だろうが、どういう理由に基づいていようとも、敬虔な行いをしたということは、敬虔ですってことです。その敬虔なことをした理由は多分この文法の枠内で語られるなんらかのストーリーによって記述されるんだけど、多分そのストーリーは構造の枠内だから何であろうと大した問題じゃなくて、別にスパゲッティモンスターのことが聖書に書いてあったとしても、別にそれはそれで文法の枠内でスパゲッティモンスターのことを書くんじゃないと聖書に書けないから、それでええんちゃうかってことです。スパゲッティモンスターも正義と愛の文脈でしか語れないってことです。別にスピノザがそうだったように、最大の自己肯定から生じるよいことをしたいという欲望(コナトゥス)によってよいことをした場合にも、隣人愛の教えにかなってる時点でその人は敬虔ってことです。てか、それが『恩寵』って言葉の真の意味です。


『敬虔か不敬虔かの基準は、その人が神の隣人愛命令に服従するか否かである。服従するなら敬虔である。』ってことです。


で、スピノザは、ついに"ちゃんと"哲学と神学を分離するわけ。


神学の目的は服従と敬虔です。哲学の目的は真理ですってな。哲学は自然から真理を導き、神学は言語と啓示と物語から敬虔を導くわけよ。どっちもすげぇ楽しそうだよなぁ、山浦くん。


まぁ、要するにさ、啓示宗教を嘲ったり、形而上学と神学を混同したりするいまのインテリよりずっとスピノザのほうが頭がいいことがわかる。


分離派は、分離しろっていうくらいだから、分離しなきゃいけないと思ってる。つまり、分離しなきゃ関係しちゃうと思ってる。だから間違ってるわけ。スピノザは哲学と神学の分離派じゃなくて、無関係派なんです。哲学と神学は関係しちゃいけないんじゃなくて、どんだけ関係しようと頑張っても、研究してる次元が違うから絶対に関係できないってことです。平行線なんです。


じゃあ、隣人愛による国家ってどんな国かっていうと、他者の権利をあたかも自分の権利のように守る国のことです。その必要十分条件ってなんでしょうか。聖書と同じように国家も構造化できるっしょ。


ところで、『よろしくお願いします』っていう挨拶あるけど、あれって倫理上、明らかに間違ってますよね。



みんな自分の利益の方が大事なのに、よろしくお願いしますって言ってくるやつってマジでなんなんでしょうか。



人間はみんな、利己主義です。認めましょう。みんな、まずは自分です。なぜなら、これが人間の本性であり、自然なんです。『よろしくお願いします』は背理であるとスピノザなら言うでしょう。


リヴァイアサンです。基本的にみんな自分のことしか考えてません。


だから、第三者による暴力装置が必要なんです。自然権の委譲といいます。でも、自然権の委譲は力の委譲を伴わなければ意味がない。ここまでならホッブズもやれた。



でも、ホッブズスピノザの違いは、社会契約を聖書に見出して、宙に浮かせないことである。ヘブライ人が出エジプトのときに、一回奴隷解放されとるやん。そんときに自然状態に戻ったことにして、そのあとユダヤの律法に自然権譲渡したことにしたわけよ。そしたら、聖書の文法つかって、社会契約説かけるやろ。民主共和政体を、神の国ってことにしてな。ヘブライの伝統である"不在の神"による、"本人たちも気づかない民主統治"である。民主統治ってのはさ、すぐ暴走すんだよ。なんでかっていうと、民主ってことは王様が民衆ってことやろ。で、民衆が王様になるとすぐ腐敗するわけ。世論の専制統治になってすぐマイノリティが舐められるわけ。


だから、どうすればいいかっていうと、王様が自分が王様であるってことに気づかなければいいわけ。


↑これがスピノザの天才的な判断です。


王様は不在の神であって、その言葉を伝えるのが預言者であるモーセなんだけど、でも、その神の言葉に従うことは、出エジプトのときみんなで契約によって決めてるわけ。これ、自覚なき社会契約説ですよ。共同幻想ですわ。これを、神政国家テオクラチアっていいます。




もっと分かりやすく言うと、"無自覚で徹底的な"聖教一致です。



"実質"民主政体といってもいい。実に巧妙である。あまりにもうまくいってしまって領土もどんどん増えたので、彼らは自分を選民だと勘違いしたのである。これがユダヤ人の選民思想の起源だとスピノザはいう。しかしながら、ユダヤ人の成功の根拠は、神に選ばれていることではなく、無知の上に循環する最強の政体にあったのだ。



だからまるで選ばれし民族に見えてしまった。モーセは無知で良心しかないし、外部から啓示を受けただけだからこそ民衆の理性による詮索をまぬがれたし、また、だからこそ、詐欺師として殺されたりしなかったし、また逆に、民衆は無知であるから、"ヘブライに伝統の不在の神"があたかもいるかのようにおそれているからこそ、モーセの預言には神の息吹という拘束力が吹き込まれていて、法律が社会を円滑にしたのである。(法律なんか守らなくていいよとかいうおせっかいなイエス様とかいう新たな預言者が現れるまではね。まぁ、イエスだって聖書の敬虔文法の枠内でしかストーリーを原理的には語れないから、スピノザは別にイエスもまぁ普通に肯定するけどね。まぁでも、神の受肉とか復活は、嘘っぱちだけどな。)


社会契約説をスピノザは聖書語で書き直したってことです。社会契約説を聖書語で書き直すとなにがすごいかっていうと、人間は本性上、宗教的な生物なんだけど、その本性を統治構造に組み込むことで社会が最強になるからだよ。しかも、めっちゃリベラルですげぇ自由な国になるわけ。だってほんとは神なんかいないんだもん。



社会契約を服従文法をつかって、聖書にしちまえば、バカは文法にマインドセットをイジられとるから、服従するやろってことです。サピアウォーフ仮説みてぇなもんで、やってることは伊藤計劃の『虐殺器官』って小説と同じですけど、あの作家のやり方より100倍かっこいいです。


どういうことかっていうと、



聖書から人間を服従させる文法を構造化してから取り出して、その文法を使って今度は社会契約説を書いてるわけ。これをひとりでやった男がバールーフ=デ=スピノザ


つまりさ、逆に言うと、民主政体とかいうとるけど、そんなもん多かれ少なかれ神学的じゃねってことですわ。


だって、社会契約説とか実際フィクションじゃん。で、フィクションへの服従は神学の分野だっておれさっき言ったやろ。だからさ、神学舐めてんじゃねぇぞってことです。


18世紀に『三大詐欺師』っていう本がヨーロッパにはあって、その詐欺師とはモーセ、キリスト、ムハンマドです。すげぇ有名な本で、聖書は支配の道具なんだっていうアナーキーなアングラ本です。


じゃあ、でも、え、なんで詐欺じゃだめなの?


え、別に詐欺でええやん。だいたいの社会とか、詐欺なんだから。



んなこと言ったら、小説だって別に詐欺だろ。詐欺だって面白けりゃ、俺は読むってことです。




ところで、先ほどと同じように、『神の国』の文法も全部書き出せますよね。



神の国の国民であるからには、論理的帰結として、以下の文法に従っているということです。まず、最高権力に従っているのでなければ正しいひとじゃねぇから捕まるってこと。平和のために活動してるならそれは聖書の次元なら隣人愛にあたるから敬虔ってことになるってこと。不敬虔ってのは最高権力にそむくってこと。それは統治権を奪おうとするってことですってこと。


神の国に住んでるひとってのは、このルールに従わざるをえないんすよ。だって必要条件だから。ルールは決まってる。ルールの内容はこの文法でかくからどうでもいい。『服従の理由ではなく、服従自体が臣民を作り出す』っていうのはそういう意味です。社会の構成員が同じ意見である必要なんかないんですわ。みんなが同じものを恐れてればね。例えば、死とか、暴力とかね。



てことはさぁ、"神の国の再興"とかいまだに言ってるのはスピノザ的にはナンセンスなんすわ。なんでかっていうと、ここはすでに神の国だから。



てことはですよ。


スピノザに対して不敬虔だとか無神論だとか言えないはずなんだよね。だって、敬虔か不敬虔かを決めるのはオランダ共和国がその代理を勤めてる(本当は不在でフィクションかもしれない)神であって、実質的にはオランダ共和国が決めれるわけ。だから、いまさら聖書とかいう矛盾だらけの本持ってきてそれに合致しねぇからエチカは不敬虔だっていうのはオランダ共和国の統治権の侵害だから、むしろ不敬虔なのはお前の方だってことです。俺を不敬虔だっていうためにいまさら聖書なんか持ち出してきてんじゃねぇよ。



ということで、タイトル『自由にものを考える無神論者は不敬虔か。』に対して、答えを書いておきますね。


自由にものを考える無神論者が不敬虔なわけがねぇだろボケが!!!!



さーて、まとめましょう。



俺は以下のことが言いたい。


宗教は背理である。ゆえに真理として信じる必要はまったくない。しかし、肯定する必要がある。なぜかというと、もし宗教を真理として信じてしまうと、哲学や科学によってある日突然攻撃されるんじゃないかとビクビクして夜も眠れないし、実際、宗教を信じてると、宗教を肯定できないからである。だって、科学や哲学に『お前ら、ペプシがコーラになると思ってるなんてバカじゃねぇの?』って攻撃される可能性がいつもお前にはつきまとうんだが、その理由はお前が宗教を真理と同一視してることが原因なんだもん。だとすると、本当のところで、その不安のタネである宗教をお前は肯定することができてねぇんだわ。だからだよ。



だから以下のことを忘れないでほしい。



思想言論の自由は敬虔と共和国の平和を損なうことなしに許容されるのみならず、この思想言論の自由が除去されれば、平和と敬虔さも同時に除去されます。なぜなら思想言論の自由は敬虔であること、平和であることのための必要十分条件だからです。


なぜなら、信仰が敬虔かどうかを決めるのは信仰内容ではなくその行為の正しさによるのであり、その正しさを決めるのは服従の大切さを説く聖書ではなく統治権力である。しかも羽根のない人間に空を飛ばしたり、嫌いなものを好きにさせたりすることは、(それは人間の本性なので)権力には不可能なので、統治権力といえども構成員の本性を変えることは原理的にできないし、自然権を委譲することは考える自由を放棄することではないってことです。なぜなら人間は本性上考える生き物だからです。ゆえに、人間は行為の上で法に従っている限り、何を言っても書いても考えてもいいのである。逆に、この社会契約を損なうような言動は大逆罪であり、たとえば聖書というベストセラー本の権威でもって言論を封殺することなどあってはならない。つまり、法さえ守っていれば自主規制をする必要など、なにもないのである。敬虔と宗教は隣人愛と公正という行為の中にあればよいのである。法の支配もただ行為の中にあればよいのである。いかなる啓示宗教も真理を教えない。信仰なんか別に無知でもええやん。だって、神の国の秘訣は"モーセの無知"にあるんだから。それゆえにこそ、真理を知る者は宗教と信仰を肯定する。


行為が、どうかである。

スパゲッティモンスターへの服従と愛のために、隣人を救った男がいたとすれば、彼は素晴らしい。


悪魔への服従と愛のために、どれだけ遠くにいても盟友を決して忘れなかったあるサタニストがいたとすれば、彼は友と呼ぶに値する。



以上