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猿でもわかるモナド論−失われた山浦くんを求めて−あるいはライプニッツのモナドロジーがおとぎばなしだと思ってる"無関心な"人々へ


モナドとはなにか。細胞のことだ。そう言いたくなる俺は、そう答えてからハッとする。モナドには窓がないじゃないか、と。そして前言を撤回する。モナドとはなにか。<自分>のことだ。私は合理論者である。ということは、つまり、個別的なものではなくて、一般的で抽象的なものから始めるひとのことである。しかし、私はそのような考え方が大嫌いである。なぜ人間は絶えず自己保存をしようとすることができるのだろうか。運動はだいたい始まりと終わりがある。しかし、絶えず続けられる運動というのは少ない。しかし自己保存とはそういう運動である。きっと目標が遠ければいいのだ。でも、ひとは平和主義とかそういう情報がとことん削ぎ落とされた一般的なことがら、抽象的なことのためには努力できない。遠いからだ。では、なぜそんなことができるのだろう。それは、守る、保存する対象としての自分が、最も明らかであると同時に、最も隠れているからではないか。これがモナドである。最も分からないものなのに、最も分かっているような妄想を与え続ける無人称のシステム、それが<自分>である。お前は自分のことは自分で一番分かるといいつつ、絶対によく分かってない。デカルトも自分のことがよく分かってなかった。だから、どうしたか。謎を謎のまま受けいれろと言った。一番不確実なことを真理として設定してやれば、それについては前提してるから前提を疑わなくて済むだろ。それが『我思うゆえに我あり』だよ。そう言っておけば、謎を謎のままにしておけるからね。すべてを疑ってみても、疑っているという<自分>の存在は疑い得ないくらい<自分>って意味わかんないよね。ってことです。だって、なぜそれ以上疑い得ないのか、彼は答えなくて済んだろ。


じゃあさっそく、それもうちょい疑おうぜ。


デカルトの言うことがもし正しいとしたら、眠っていたり気絶してるときはデカルト消えるのか?って話です。


消えません。なぜなら、微小表象が生じてるから。微小表象とはなにか。無意識のことです。無意識ってなにか。意識されてない部分の意識のことです。では意識とはなにか。表象のことです。表象とはなにか。外的事物の光を遮断して、一部を透過させ、一部をスクリーンに焼き付けることです。作用と反作用だけの世界で本当は無理なはずの知覚をすることです。要するに世界から自分が注目する部分だけをスクリーンに焼き付けることです。光でしかないリンゴを赤くすることです。だとすると、スクリーンにうつる映画だってカメラだって表象してることになる。光でしかない世界の光を引き算してるんだ。これを、ベルクソンなら減算モデルと言うが、ライプニッツは天才なのでそんな難しい言葉を使わない。


だとすると、精神とは表象と欲求のことなんだから、物体も精神的なんだろうか。


そうである。


ライプニッツは、物体を眠れるモナドとして見ている。いや、そもそも、人間だって精神はないし、生体は物体から生まれたのではなかったか。だとすると、物体とか生体という区別がそもそもよく分からないのである。世界には眠っているモナドと眠っていないモナドがあるのだ。だとすると、物体か生体かとか、肉体か精神かとか、そういう問いの立て方自体が間違っていたことにもう気づいたはずだ。肉体はあたかも精神がないかのように作用し、精神はあたかも肉体がないかのように作用し、しかも両方が両方に作用を及ぼしあっているように作用する。それがなぜかはもう考えなくてよくなった。なぜなら、世界の構成要素はモナドだからである。



世界中にモナドが満ちている。しかしそれらには窓がない。決して混じり合うことがなくそれぞれが独立なのだ。孤独である。しかし共時的に調和する。


しかしそうだろうか。


モナドの発想とその調和の発想の間には少しジャンプがあるように思える。前者はおそらく無機物にも生気を見出そうとする発想から生まれていて、後者は多分その逆だからだ。モナドはリアルなのに、神はリアルじゃねぇ。


ところで、『なぜここにいるのか答えろ』という問いを、誰何(スイカ)の問いという。ウォーターメロンの問いである。スイカの問いを発すると、常に、夢の中にいるのか、現実の中にいるのかは分かる。なぜでしょうか。それは、『理由のないものは現実の世界にはない』からです。これをライプニッツの理由律といいます。


だとすると、これに答えられないときというのは、夢を見ているときなのである。そして、大半の人はこの質問に答えられない。


ところで、なぜ理由律は絶対なの?と疑問に思った人は以下のことを考えましょう。歩くとき右足から出すか、左足から出すかを死ぬ気で考えてみてください。ほとんど条件は同じです。が、ほんの少しだけ条件が違うでしょ。だからあなたは動けました。しかし、さて、その条件がまったく同じだとしてみましょう。すると、あなたは死ぬ気でと言ったので、死ぬ気で考えます。しかし、どちらからだしても絶対に同じなので、選べません。その結果、死ぬ気で考えたのであなたは死にます。しかし実際には死んでません。


つまり、右足か左足かの選択にも必ず理由があるんです。理由がもしないとすると、まったく同じ2つのものがあることになります。まったく同じものが2つあるとすると、ひとつを選ぶ理由がなくなっちゃうのです。葉脈がまったく同じパターンの2つの葉はありませんが、なぜかというと、どちらかひとつを選ぶための理由がないからです。まったく同じパターンの葉脈を持った2つの葉がある世界なら、きっとそれは夢です。


これがライプニッツの不可識別者同一の原理です。不可識別なら同一でしょ。でも、同一のものなんてないでしょ。だから2つのものの間には必ず内的な差異があるでしょ。


これがライプニッツの不可識別者同一の原理です。いや、もっと分かりにくく言うと、『外的に異なるとき、いつも内的に異なる』ということです。位置以外にすべてが等しい2つの葉っぱがあるとしたら、その葉っぱがどの枝のどこにつくのか、理由がなくなってしまうわけです。


分かりやすく言うと、ディファレンスがないものはないって意味です。ディファレンスがないものっていうのは、アンディファレンスなもののことです。アンディファレンスなものというのは、無関心な人のことです。つまり、無関心であっていいわけねぇだろってことです。差異を見出せバカどもが!!!



というのも、数学の世界(現実じゃねぇ)でなら、数においてのみ異なるものって存在できるだろ。てか、数学の世界ではそういう事物を前提しないと、足したり引いたりできないですよね。


外的に異なるというのはどういうことかというと、時間空間においてのみ異なるってことです。位置が変わると位置以外も変わるってことです。太陽に向かって地球を少し動かしたら、地球の温度は上がりますよねってことです。なぜなら、事物は関係の中にあるからです。位置が変わるというのはどういうことかというと、原点が動かないということです。もし点Pが動きつつ位置が変わらないとしたら、原点と点Pが同時に同じ方向に動いてないといけません。ということはつまり、動くということは"ある点からみたある点の関係が変化する"ということです。


ということは、私の内面には固有性がありますが、その固有性は常に外部の位置の変化と連動していることになります。留学して性格が変わるというのはそういうことです。場所が変わるから内面が変化し、内面が変化したということは、そいつの場所が変わったということです。つまり、時間と場所の違う2つの同じものはないってことです。つまり、逆説的に言おう。モナドは無窓性を徹底することで外部に開かれるのだ


外部の差異はモナドの内部で表象されるんです。無差別のモナドは存在しないから、モナドは常に固有性がある。つまり、お前はかけがえのないモナドなんだわ。同じモナドは一つとして存在しねぇ。しかし、その差異は微小表象かもしれない。無意識に表象されてるから気づけない。同じものに見えてしまう。いやまて、そもそも、モナドには窓がないんだから、外的変化が内部にどうやって伝わってんだよ。よって、もう少し、お前の、山浦くんのかけがえのなさを探さなきゃいけない。俺についてこい。


この問題はモナドには窓がないを維持したままで解決できる。

もしヨーロッパにいる俺が死んだとき、山浦くんは瞬間的にそのことを知るということだ。なぜか。なぜなら、ライプニッツ的に言えば、世界には真と偽の命題しかないからだ。つまり、俺が死んだという命題は、俺が死んだ瞬間に偽から真になる。知ることで変化が生じるのではない。認識しようがすまいが、世界の出来事はモナドの中に表現されると言っているのだ。人間は宇宙の一部であり、その鏡である。宇宙の端っこの闇の中にいたるまで、微小表象として我々は反映しているのだ。つまり、世界とは暗い隅々まで私である。


しかしこうも言えるはずだ。ヨーロッパの俺が死んだとしても、それは俺という外的規定による関係(名前)が変化しただけだと。つまり俺が死んでも僕が死んでないということもありうるのではないか。つまり、真理値が変化してもそれは言語世界の問題であって、実は変化が起きてないということもありうるのではないかと。これは典型的な実在論の掘り崩しである。よくある手である。しかし天才ライプニッツはそうは考えない。それをうまくかわす。どうやるのか。名前とその名指される対象には関係がわずかながらあるのだ。というのも、先ほど述べたように同じものは2つと存在せず、外的規定は必ず内部にその基礎を持つ。つまり、俺と僕は名前が違うだけ、ではないのだ。俺が死んだということは、俺にしかない内部に固有の何かが死んだのであって名前を変えて僕なら生きてるよとはならない。俺と僕は名前が違うだけではないのだ。名指される何かが内部で持つ違いを反映しているのである。もっと難しく言うと、真なる命題において述語の概念は主語の概念に含まれているということである。『山浦は田中の左にいる』という命題が真のとき、もし左にいなくなったらもはや山浦ではなくなってしまうということである。つまり、『山浦』は、言語学的、恣意的な偶然ではないのだ。つまり、俺という代名詞と田中くんが結びつくにはなんらかの理由があるわけ。もちろん僕でもよかったわけよ。理由があればね。つまり、その意味では偶然なのね。でも、選ばれてしまってからは必然なわけ。【選ばれるまでは偶然、選ばれてからは必然】、これについてはライプニッツの自由論で重要になるから忘れないでね山浦くん。時空規定は主語の概念に組み込まれている。だから、繰り返しになるが、外的規定だけが違って、それ以外は同じものは絶対にありえない。レプリカントは現れない。アンドロイドは電気羊の夢を見ないのである。


では、いままでの話を総合すると、有限のモナドの中に無限の宇宙が含まれるということになるが、それでいいのだろうか。無限を有限が含むということはどうやってなされるのか。襞を使うのである。被造物であるモナドの中には展開されていない無数の襞が含まれている。その襞が内側にさらに襞を含むのだ。襞の中の襞の中の襞の中の襞の中の襞というようにモナドの中は小腸のようになっている。では無限をどう経験するか。波の音のようにである。海岸を歩いている時、我々は波の音を別々に個別に聞いていながら、ザーッという音に合成する。このようなやり方で、渾然とした無限は減算されてスクリーンに映され、あとは微小表象として意識のうしろで聞かれるのである。こういうのを強度的っていう。ある食べ物が塩辛いことは瞬時に分かるが、塩辛さがなにかは分からない。なぜなら、塩辛さを構成している契機は強度的であって、ひとつひとつを説明できないからだ。宇宙が存在していることははっきりとわかるのに、なにが存在しているかを表象できない。これを"渾然"という。いま言ったことをものすごく難しくいうと、ライプニッツは万物同気として宇宙は微小表象という暗い領野として与えられ、それがモナドの地平をなしているということだ。渾然とした地平があるから、判然とした輪郭が立ち現れるのである。この輪郭を統覚とか自覚という。つまり、渾然とした宇宙の中の、中心で光の濃度の高い中心部分、それが<自分>である。


ということは、唯一性には二種類あるという必要がある。ひとつめの唯一性は、不可識別者同一の原理から導かれる唯一性である。外的規定だけが異なり、内部は同じものは2つ存在しないという唯一性だ。もうひとつの唯一性は、しかしだとすると、ダンゴムシの唯一性と私の唯一性は同じ唯一性だろうか。ダンゴムシも無数のモナドが出たり入ったりしているし、<自分>もそうであり、時空間規定が異なる以上、どちらも唯一のものである。しかし、ダンゴムシには統覚がない。


もうひとつの唯一性とはなにか。それは、常に新しい自分に変化し続ける限り同じ自分であるということである。<ミーハー唯一性>と呼ぼう。無数に存在するそうなりえたかもしれない<バリアント自分>との比較において現実の自分の方がアクチュアリゼされる。そのときの問い『なぜ私は世界にひとりしかいないのか』を発することによって生じる、かけがえのなさを問うことのかけがえのなさである。事実のレベルでもうすでに偶然であること(他でもありえたこと)、唯一であること(他に外的規定だけが違う同じものがないこと)、同一であること(これを自分であると同定すること)がすでに備わっている。なぜなら、モナドとはそういうものだからである。しかしながら、それだけじゃない。そこからさらに人間は、『私とはなにか』という問いを発する。これは、問いではない。なぞなぞである。つまり、答えなど同じ次元にはないのだ。同じ次元にはないから、新たな次元から答えとなるものを見つけてきて新たな事実を引き起こしていくことである。たとえば、『上は洪水、下は大火事、なーんだ』というなぞなぞは、『小さい方からかずえて100番目の素数はなにか』という問いとはまったく構造が違うのである。後者は答えのあるつまらないものだが、つまり、答えがあるのだから問う必要すらなかったという意味でそもそも問いにすらなっていないのだが、前者は本当の意味での問いである。これには『お風呂』というふうに答えればいいじゃないかという人がいるかもしれないが、それは違う。なぜなら、お風呂は上が洪水でもなければ、下が大火事でもないからだ。お風呂について、ぼんやりとした知識は、それこそライプニッツのいうように、"渾然と"与えられている。しかし、それが統覚によって自覚されていない。そこで、このなぞなぞは日常的な語り方の次元に答えはないことを気づかせて、『お風呂とはいかなるものか』を自覚させているのだ。つまり、『上は洪水、下は大火事、なーんだ』

というなぞなぞは、『お風呂とはなにか』という真の問いなのである。つまり、『私とは何か』というなぞなぞを、答えをすでに渾然と知っているのにもかかわらず私が私に対して発するというときに起こっているのは、問いを問う過程とその問いが成立する条件を整備する営みである。問いへの答えが泣き叫びであろうと、それは初期条件としてフィードバックされて事実と化し、また問いの条件となる。この問い返しは反復ではない。この反復ではない反復の中の差異が、お前だ。