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極めて中途半端な、ゴミのようなフッサール概論。

『世界は自我を超越しているのに、なぜ与えられるのか。』という問いを、既に自然主義や客観主義の一派である科学は、問いではなく既に前提にしている。反自然主義の基礎付けはフッサールの仕事だった。フッサールは心と世界は真理によって繋がると述べた。意味がわからない。意味がわからないので、少しそれについて述べる。


なぜ意味がわからないかというと、そもそも、真理の概念こそ客観主義の元凶だったはずだからだ。しかし、ポストモダンにおいて、真理の概念が無意味になったというのは本当だろうか。んなわけねぇだろ。



信じるとは、真だとみなすということだ。スミレの花をみたとき、そこにスミレの花があることを真だとみなしているのである。真だとみなすからこそ、そのスミレについての会話ができ、そのスミレに触ろうとするのだ。真だとみなすことは、その世界に全幅の信頼を置いて、身をまかせるということだ。つまり、信じることは第一に推論的思考の前提になる。前提が正しいことをまず信じなければ、三段論法すら機能しない。第二に行動に不可欠の前提になる。真理を媒介して心と世界が繋がっているとはどういう意味かというと、真であるとみなすことを通じて、世界は現れるという意味である。これをフッサールの言葉で表象という。表象は昔々、観念という、まったくよくわからない中間項を挟んで説明されていた。しかしこれには自ずから、心の中の観念は実在についての本当のことを表現しているのか、心の中の観念はそれ自体で内的な真理を表現しているのか、といった表象の正しさを問う規範的な問いかけが内蔵されている。規範的とは正しさが何かに依存するということであり、何に依存するかというと、規準であり、その規準は外的事物の実在性なのである。しかし、観念は外部についてなんの主張もしていない。外部と自分を比較する判定すらしていない。これらの規準は文『赤い観念は実在の赤を表している』という文が担わされた役目なのである。心の中の観念にな、正しさも正しくなさもなく、それが表象と呼ばれるためには、真偽値を取れて、表象の規範的特性を成り立たせる文の一部として組み込まれる必要があるのだ。世界を表象する基本単位を文だとみなす発想、そして、信念は内容が真偽値を持つ文の形式で表現されるという発想こそ、フレーゲが最も強調した点である。ここに彼より速く気づいていたのは、ライプニッツとカントだけだ。どちらもドゥルーズの系譜である。



(フレーゲに言わせれば、文の意味とは真偽値のことであり、それを決めるのは語ではなく文である。ただし、フレーゲの表象はフッサールの表象と意味が違うので気をつけなければならない。フレーゲの表象は、主観的なよくわからないものである。ソクラテスは美しいと、プラトンの師匠は美しいは、意味すなわち価値が同じで意義(=思想=信念内容)が違う異なる文である。)


しかし主観側が真であると『思いなすこと』とはまた違う。ここが重要なのだ。真であるか偽であるかは、世界のほうから、決め方もろともやってくる。それに従うことしか出来ないのである。そして信じるからには、従うべき規範がともなう。フッサールによれば、スミレは、意識にそのときどきの位相で現出するが、スミレという事物それ自体を定義するものは、そのときどきの位相を超えて、より多くの隠れた現出を秘めているのだ。事物にはこの汲み尽くしがたさがある。事物はその表象と同一ではないが、その現れとの相関してその都度定義される。これがフッサールの主張である。これはバークリーやヒュームが言ったように、予測される条件に応じてさまざまに変化する心中の単なる観念の束だと言っているわけではまったくなく、じかにスミレの匂いを嗅いだり、そこにスミレがあるとみなす信念や、変化させたいという意図でもあるのだ。現れの汲み尽くしがたさを、我々はもう既に承認して、それに参与してしまっているのだ。


近代哲学は、表象を断片的な観念に担わせた。しかしながら、心と世界のつながりを形成するのは、むしろ、判断や信念や文だと言ったのがフッサールだったのだ。現代意味論の始祖フレーゲも似ている。表象の担い手は、心の中の感覚やイメージや体験ではなく、かといって、物体の電気信号でもない、『意味』という存在領域を成すことを確認したのだ。しかし、ふたりの相違点は、フッサールは判断や文や最も世界に対して直接的な知覚といえども、信念の志向性からは逃れられないと考えた点である。だから、文ではなく、文の内容を信ずる信念志向性を押し出してくる。ここがすごいところなのだが、知覚っていうのは、文になりようがないはずなのに、知覚にも真であるとみなすことの資格を与え返したのだ。


フッサールって、古代ギリシアチックなのである。心の探究は自然の探究であり、自然の探究は心の探究であると言っているわけだから。科学者はむしろ、自分もその自然の一部なのにもかかわらず、自然から自分の匂いを消し去り、純化した自然像を妄想してみて、今度はそれに自分をも統合しようなんてしているものだから、とってもバランスの悪いことをやっているのである。そんなことをするから、"心の独自性"なんてものがむしろ際立ってくるのだ。変なことをすれば変なものがでてくるのは、当たり前の話である。


ところで、フッサールといったら、有名なのは現象学的還元という言葉であるが、これは、意識の現れの領野への回帰という意味ではない。心と世界の結節点である真理によって解釈をされた存在として、世界を見出す手続きのことである。存在を疑うことができない純粋意識にまで還って、その意識が世界を構成する仕方を記述することだとも言える。しかし構成するとはなにか。悪名高きデカルト的基礎付け主義と何が違うのか、構成するという動詞の内実が分からなければ何にも分からない。



さて、術後を準備していこう。クオリアとはなにか。感覚質のことだ。赤い色をみて、それが青だとすることは全然できるんだが、その見えている色を見えていないことにすることはできない。その見えている色のことをクオリアという。これで何言ってんだお前と思った人は、海を見たときの解放感だと思ってください。AIに海を見せて、解放感を感じさせるにはどうしたらいいんだろうか。エラーになるほどの情報量なのだ。これは、ハードプロブレムと呼ばれているらしい。てかそれ、難問って意味やろ笑。諦めとるやないかーい。ただ、このクオリアフッサールの志向性に比べて弱すぎる概念である。というのも、海辺が眩しいから移動しようという文に山浦が同意して頷いたとすると、お互いの心の中で異なるクオリアが生じただけではないからだ。それよりむしろ、複雑な合理性システムが行動を可能にしている。あまりクオリアは関係がないのだ。『ここは眩しすぎる』という信念を持ち、そして行動する。そのとき、海の家についての信念、そこへの看板を見たという信念、看板はおおむね正しいという信念、信念を支える信念が複数あるはずなのだ。合理性とは抽象思考という意味ではなく、志向性システムのおかげで適切な仕方で行動できるという意味である。科学もこの信念なしにはありえない。実際、科学も含めて、全てが、疑いうるのだから。科学も自然についての信念システムである。問題は、その科学という信念システムが、自然についての最も正確な表象を与える、あるいは与えるべきである、ということを現代社会が科学に執拗に要求し過ぎていることだ。なぜ、小林秀雄が論じた『常識』『直感(虫の知らせ)』だって、たいていの行動を成功に導いている信念システムなのに、なぜそれらより科学のほうが正確な表象だと言い切れるのだろうか。どちらにも、一長一短あるというのが私の立場である。(というより、我々の感性は恐るべき速度で、身体が計算を成し遂げて与えられるとは考えられるのではないだろうか。)



信念(たとえ、本当でないことでも、なにかを真だとみなすこと)に代表される(他に欲求・意志・愛もある)志向性(意識が自閉しておらず、常に何かについての意識であり、誰かと共有できること)には2つの特徴がある。


①物理法則とは違うしかた(物理法則はどちらも世界の中の実在物でなければ機能しないが、人間の信念は嘘の予言でも信じれる)で、意識の外部へと向かっていて、行動と推論の前提になる。

②充足条件を世界へと投げかけながら世界へと向かう。ある信念は、内容通りだという意味で充足するか、そうでなければ充足されないという条件を世界に投げかける。


というか、意識を物理法則の担当領野と完全に分けるには、この比喩が失敗していることを示せば充分である。よく、意識とは流れのようなものだという比喩を聞くが、あれは完全に間違っている。流れが意識のようなものなのだ。意識を川の流れの比喩で説明できるのは、遠くにあったものが、現在のある一点に接近し、その点から遠ざかるという現在を中心とした秩序が既にあるから、であることに無自覚であってはいけない。現在がないと時間は流れないのだ。現在の期待があって、それが現在に接近し、過去へと現在において忘れられていくという現在中心の時間秩序こそが川の流れを可能にするのであって、決してその逆ではない。単なる移動は流れにならないのだ。


ということで、いわば、クオリアは科学を拒絶している、俺に言わせりゃよくわかんねぇ甘いもんだが、志向性のほうは、むしろ、行動を生み出す機能として、高等生物行動の科学研究の対象にすらなりうるのだ。というより、機能よりずっと面白い概念である。なぜなら、世界についての私の信念は、自分の考えが正しいことに理由を与える正当化の一部を成すとともに、他の信念との組み合わせに応じて、信念システムを更新したりする自己点検的なものだからだ。


今日はここまで。




猿でもわかるハードコアなフーコー、あるいは全世界を流謫の地にするためにー無限の単なる否定ではなく、内発的に臨界と起源を問う力能に満ち満ちた有限存在である山浦についての自論、すなわちキュクロプスとポリュトロポスの狭間でー



フーコーの著作『精神疾患とパーソナリティ』(この本の邦訳の99ページはすごいことが書いてある本です。『ほんとかよ笑』と思ったらそこだけ開いてみてください。)の中に分裂症の患者が次のように証言する場面がある。「わたしは世界から除け者にされ、生活の外部にいるようでした。わたしの目の前で、混沌として映画が映し出され、わたしはただそれを眺めているだけで、一度も参加できなかったのです。」これが、デカルトでなくてなんだろうか。デカルトの『方法序説』は、離人症的体験のモノローグとして読めるのではないだろうか。自分の自分からの疎外(アリエナシオン)の記録である。デカルトはその胡蝶=誇張的懐疑の階梯として夢を用いるのに、なぜ自分の思考がすでに狂っている可能性については問わなかったのだろう。なぜなら、デカルトの時代、狂気は制度的に疎外されていたからだ。(フーコーは思考する主体から狂気を除外したのに対して、一方で言語の畑が好きなデリダは懐疑の対象から言語の意味を除外したのだと訂正した。)



僕にとって、フーコーは、カントからニーチェの通路を、『歴史的アプリオリ』という概念を使って、こじ開けた人という認識です。ドゥルーズは、フーコーから、次の世紀はドゥルーズの世紀になると予言された。僕もそう思う時がある。しかし、『フーコーとは誰か』。この質問はフーコーが最も嫌ったものだ。なぜか。フーコーは『ジュードヴェリテ』(真理の戯れ)を発想した。これは、ひたむきな遊びである。ジューはプレイのことだから、遊びでもあり、演劇でもある。彼の人生は、「ソクラテスの仮面の下で、不意にソフィストの笑いが炸裂する」演劇であった。どういうことかというと、フーコーにとって、『自己』や『真理』というのは、もはや固定的に見られた硬直した存在ではなく、見る主体と見られる対象との間にその都度結ばれる関係であり、主体も対象も生成という観点から捉えなおされることによって、何らかの所与の関係に拘束されるものではなく、むしろそれを能動的に形成するものであり、主体となるということは、何を対象とするかと相関的であり、この主体と対象、両者のうちに成立する空間こそが『真理のゲーム』なのだ。この真理のゲームを通してのみ、主体は真実を語る。これほど自分探しの罠から逃れる術を美しく語った『舞台の上の哲学者(フィロソフス・スケーニクス)』はいないだろう。


フーコーが自己自身であることを拒否する病気、すなわちエイズで死んだ時、棺に向かって、ドゥルーズフーコーの『快楽の用法』を朗読した。以下はドゥルーズフーコーの棺に向かって、しわがれた声で朗読した内容の全文である。僕と山浦は、こんな関係を築けるだろうか。僕はドゥルーズが盟友フーコーの棺に向けて語りかけたこの言葉をいま、読み返す。


ー私を突き動かした動機は極めて単純なものでした。しかるべき人の目にはそれだけで充分だと映ってほしいような動機、すなわち好奇心です。しかしそれは、粘り強い修練を積む価値のある特別な好奇心です。つまり、知ると都合の良いことを手に入れようとする好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にするような好奇心です。仮に、知へのひたむきさが、知見の獲得のみを保証し、特定のしかたで、出来うる限り、知見者が道を踏み外さぬようにする点にあるのだとすれば、どこに物を知る価値などあるでしょう。人生には、いつも考えるのとは違う仕方で考えることができるのか、いつも見ているのとは違う仕方でものを捉えることができるのか、これをこそ知るということが、ものを見据え、反省を加えることを継続するのに不可欠の問題となる、そういった転機があるものです。哲学。哲学的な活動という意味で言っているのですが、それが思考の思考自身への批判的作業でないとしたら、今日の哲学とはいったいなんだというのでしょう。もしまた哲学の本領が自分のすでに知っていることを正当化する代わりに、他のように考えることが、いかに、どこまで、可能であるかを知ろうとすることを企てることのうちにないとしたら、いったい哲学とは何でしょう。哲学的な言説には、自らに疎遠な知に関して修練を積むことで、それ自身の思考のうちで、何が変わりうるのかを開拓する固有の権能があります。この試み、すなわち自身の変容のための試練という意味であって、他者を単純化して自己に同化するという意味に解されてはならないこの試みこそ、哲学の生きた身体であり、少なくとも、哲学がかつてあったように依然として今もあるとすれば、思考における、いわば修練、自己自身の鍛錬です。ー



いやーこれ普通に泣けますね。もはや、フーコーについて、大切なことはドゥルーズが言ってしまったように思う。このすっげぇかっこいい方の好奇心ってなんだろうか。ポリュトロポス的好奇心である。有限な存在である人間に、世界は一挙にその全貌を表すことはない以上、われわれとしては、自らの生存を賭けて、あらゆることに対して、位置をずらし、角度を変えて、これを見つめるしかないじゃないか山浦。



エピステーメーについて、分かりやすく言うと、知の編成のことである。全然分かりやすくないので、言い直す。歴史は経験を可能にする条件として働くということだ。これを歴史的アプリオリという。では編成とは何かというと、結び目のネットワークのことであり、それは遠くから見ると、布に見える。布に見えるから、時間が経つと、重なる。重なると地層、ミルフィーユみたいにペラペラめくれる。これがエピステーメーだ。いまんとこ3枚のエピステーメーが知られている。つまり歴史は3枚の非連続な布でできてるってことです。時代順に、ルネサンスの相似エピステーメー、古典主義の表象エピステーメー、近代の有限性エピステーメーです。これらをタペストリーと言ったり、タブローといったりします。これらの共通の枠の中で、「学問」とかいうなんかよくわかんない制度は語られたのです。


相似エピステーメーとは、めっちゃアナロジー使ってくることである。シェイクスピア十二夜なんか典型です。双子がいて、少し違っているんだが、それは隠れているだけで、いずれ隠れている方にもその特性が発現するという話である。騙し絵、錯覚、二重劇、取り違え、夢と幻想の戯れである。演劇は世界のこうした傾向を真似るから、世界劇場という演目が流行する。シェイクスピアはこれだ。



しかし、だんだん相似エピステーメーは土台がないことが、つまり、アナロジーの罠にみんなが気づいてくる。それに代わり表象エピステーメーがやってくる。絵画、地図、演劇、言語、擬音、は再現ではなく、表象とは代理の時代だ。類似性を前提していない。だから、古典主義時代は、言葉・生物・富の分類、分析、交換も表象エピステーメーのネットワークの上で行われる。前期と後期に分けよう。前期は表象であり後半はそれが欲望に結びつく。



例えば前期の典型例は、表象行為自体を表象した古典主義のベラスケスの『ラスメニナス』。絵の奥の方に鏡が見える。この鏡の中の二人は誰かというと、スペイン国王フェリペ4世と王妃マリアーナである。てことは、位置関係から言って、裏返ってるキャンバスの中に描かれているのはこの二人だ。そこを王女のマルガリータが見に来たのだ。てことは、この画面を切り取ってるのは被写体である国王夫妻の視点だ。しかし、それがこの絵の鑑賞者の視点と二重化されている。ちょっと整理しよう。どんだけ表象されとんねん。アホか。えっと、この絵で何が起きているかというと、「鏡にボヤけて映っている国王夫妻を描いている画家を見ている王女たちを国王夫妻が見ているその展望を画家自身が肩代わりして描いた絵を国王夫妻に肩代わりして鑑賞者が見ている」のだ。ということは、視線の主体は画面内に不在であり、主役である王は世界において不在である。これが類似性ではなく、純粋な表象に移ったことを表している。哲学史に置き替えるとどうなるかというと、デカルトは世界に対して観客であろうとしたということだ。デカルトが誇張=胡蝶的懐疑において想定した身体なき精神は、古典主義時代における表象の主体そのものである。これは言い換えれば、演劇の中で自分は不在の立場を守ろうとした。これがこの時代のエピステーメーだというのだ。それが最もよく現れているのが、サブジェクトという言葉である。最初は属性が宿る基体という意味だったものが、主観という特権的地位が与えられるようになった。つまり、色や音が物体の基体に宿るという考え方が人間にも直接敷衍され、色や音の観念は人間の基体に宿るとされたのだ。これによって観念の自閉世界から抜け出すことはできなくなった、し、科学的・観客的・客観的思考が可能になった。分かりやすく言うと、バラはしおれてもバラである。人間も老けたところで属性が変わるだけで、基体は変わらなかった。そこへ主観が登場したことで、同時に客観が登場した。その証拠に、オブジェクトの方も、思考内容という意味から客観的対象を意味するようになった。これにより有限な文法規則で無限の言葉を生成し、自分は死ぬのに連続的生命について考える生物学がうまれる。無限があって初めて、表象の幕から噴出できるのだ。デカルトによる主観発見までは、オブジェクトは主観的内容という意味だったのである。観念は外的事物を表象するものなんだが、デカルトはその観念による表象のうちにすべてがあることを出発点としながら、つまり全てはこの私の表象であるという独我論を出発点としながら、その系の内側から証明できる神の存在を使って、実在論を導いた。このとき、神は、「不在のまま全体を支えている」。あの、ラスメニナスの鏡の中のでボヤける王のように。ラスメニナスの王が目を閉じれば、あの絵は消えて、自閉世界しか残らない。王は神として描かれていたのだ。




まさに、この場所に、古典主義の後期からは、人間が座ることになる。つまり人間は起源を喪失する。カントのヒュームによる独断のまどろみからの目覚めは、人間学への再入眠だったわけだ。表象から欲望への転位と言ってもいい。カントは、古典主義時代の後半部で、ドンキホーテから目覚めたと思ったら、サドに入眠していたというわけ。文学の先行には本当に驚かされるね。どういう意味かというと、田舎娘を貴婦人として表象し、風車を竜として表象したドンキホーテは、ついに演劇の中の一人の登場人物になるのに対して、サドのジュスティーヌは、他者の欲望の対象としてのみ存在し、表象という冷たい外形を通してしか、欲望を感じることが出来ない。つまり、デカルトにあっては人間が問題にすらなっていないほど不在であったのに、そこへ超越論経験論二重体としての人間がカントにおいて挿入された結果、神を必要としない自律性はやっと達成されたが、今度は、ただちに人間理性の起源が喪失した。これらはすべて表象エピステーメーの中で起きた一連の流れである。まぁ、要するに、ハイデガーに言わせりゃ一発なんです。「客体がより客体的に現れ出れば出るだけ、それだけ一層主体的に、すなわち一層差し出がましく主体が立ち上がり、それだけ一層止めどなく、世界観察と世界論が人間論へ、人間学へと転化する。世界が像となることで、初めてヒューマニズムが始まるとしても、何の不思議もない」だってさ。さっすがハイデガー!何の不思議もない!はい。どーん!つまり、ものすごーく単純化すると、表象の構造って、欲望の構造に似てるよねってことです。「見る」って動詞は日本語の古文では欲望のことでもあるよね。これを今度は絵画論に置き替えるとどうなるか。マネの『フォリーベルジェール劇場のバー』が転換点であった。これまで絵画はキャンバスという物体を、絵の世界という表象空間に置き替えようとしてきた。しかし、この絵は、画布の持つ素材をそのまま現出させて使っているのだ。そのことによって、主観と客観の間に、自由な懸隔が生じている。女の視線は焦らしているように曖昧である。これが視線の戯れと呼ばれるものだ。意味がわからん。いったいどういうことか。ここでは、遠近法が脱構築されているのだ。奥にある消失点が無いため、鑑賞者の占めるべき位置がそこからの対応関係でこちら側に見出すことができないのだ。不在の王は本当に不在になってしまった。さっきのベラスケスだったら鏡に王の姿が不在ではあれどぼんやり写っていたのにである。しかしこの絵は描かれている。ということは、画家はここにいると同時に、いないのでなければならない。この両義性である。遠近法とは、一旦成立するや一般の人々のものをみるという経験を制約するような超越論的機能を持った、"時代の産物"である。だからそれを脱臼させてみたのだ。遠近法だって別に制度だよねと言いたいのだ。


さて、カントの人間学の眠りを覚ますのはニーチェであった。フーコーというと、有名なのは、人間の終焉という概念である。これで有名になったからだ。しかし、終焉する前に、そもそも始まっていたのだろうか。フーコーはこうも言っている。人間の死において、まさに神の死は完成するのだ、と。ならば、ニーチェによって神はとっくに死んだのだから、人間はとっくに終焉していた亡霊のようなものだったのだ。なぜなら、「人間」という概念自体が無限者との関わりなしにはありえないからである。神の死の前触れとして、人間の死があったよね。というか、遠近法ってさ、三角形を底辺で2個くっつけて描く描き方なわけよ。片方が消失点で、片方が鑑賞者の目ね。で、三角形と三角形がくっついてる底辺がキャンバスの底辺に重なるわけ。で、三角形とキャンバスの垂直線が交わる点で平行横断線を引くのね。これで奥行きが見える。で、消失点を神だとしたら、鑑賞者の視点こそが自己やん。てことは、有限な自己ってのは、無限な神の前提条件なわけです。でも、それが脱構築されちゃったわけだ。だって、新しい人間って有限じゃないんだもん。有限だけど、絶えず視点をズラしていく力能を持った、無限へ渾然と接続できるし、接続するたびにフィードバックを受けてまたズレていく、もはや人間とは呼べないような新たな存在。人間が死んだことで、生命力の横溢する欲望的主体が内側から突き破られて飛び出した。この横溢する生命こそ、病気や死、奇形や異常、偶然や誤謬といった、あらゆる逸脱を、それ自身のうちに本質的な契機として含んでおり、『非連続的な連続』のうちに生起するものである。生命は、『一瞬たりとも同じでないのに、一瞬たりとも途絶えたことがない』。身体は精神の監獄なのではなく、精神が身体の監獄なのだ。そしてそこに自発的に監禁されに行った人物がデカルトを筆頭にする近世的主観の境位であるとフーコーは暴露した。その監獄は神(という不在)しか外部を持たず、表象の世界に閉じ込められていたことが思い出される。主体化とは隷属化であるとはこのような意味だった。フーコーが晩年に注目したのは、やはりディオゲネスをはじめとするキュニコス派だった。ニーチェは、真昼間にカンテラを下げて市場をぶらつく男が、『俺は人間を探しているんだ』と答えたという逸話から、『神はどこにいる、俺たちが神を殺したんだ』と叫ぶ大いなる正午の話を換骨奪胎した。フーコーは、キュニコス派のこうした、パレーシアー(なんでも包み隠さず言ってしまうこと)を通して、魂のプラトンソクラテス的な純化ではなく、真理との関係を絶えず変えながら制度の恣意性を暴露していく一種のスキャンダルな生き方に、かえって狂気や獣性というものの尊厳を確認するという、他のように考えるという、そしてなにより、遊戯的なゲームの中で相手の自尊心に対して挑発を行い戦闘的・闘争的・韜晦的な対話を重ねることで、相手にも自分のうちにも、自己との闘争という修練の機会を提供する精神の崇高な運動を見出したのである。パレーシアスト・フーコーに相応しい幕切れとして、彼はドゥルーズに見送られた。









猿でも分かるメルロ=ポンティ、あるいは如何にして山浦くんとの見解の相違を止揚するかー時間・科学・隠喩ー

私には最近気になっていることが3つある。




 

デリダが自らをも解釈とするほど徹底的な相対主義の闇の中で、あえいでいるように見えてきたこと。

 

⑵時間の流れについてだ。私がみたところ、時間が流れるためには3つの非存在が必要である。「かつて」「いつか」そして「この現在を非存在にする非存在」である。この3つがないと時間は流れない。流れるというのは川の比喩だがそれは明らかに失敗していることが分かるだろう。時間は現在があるから流れるのだから川には船を浮かべなければならないが、その船は流れと同時に川を進んでいくのだから時間は流れるわけがないのである。しかも、川には上流と下流があるが、時間において過去はもうないし、未来はまだないはずだ。要するに時間を川の比喩で説明することは「3つの不在」が不在であるために不可能なのである。つまり時間とは存在ではなく生成なんだよな。哲学って学問である限り経験の総体に依拠するしかないから、この問題は解決しなそう。だって経験そのものがもつ構造なんだもんこれって。一方で、詩人の言葉は永遠の現在において紡がれる。花を見るとき、花が自分を見ているような。意識は再帰的構造を取るから自己定位には時差が原理的に必要だ。コギトも無言のコギトであったはずなんだ。考えていることにデカルトが気づくのは考えた後だろ。

 

⑶科学(山浦くん)と哲学がどう和解するかだ。そもそもひとつだったのだから、和解できないはずはない。

 

今回は⑶のテーマで少し読書をしたので考えたことを以下に書いてみる。

 

身体図式とはなんだろうか。ことばが身振りであり、全身の振動が怒りという意味を持つように、身振りであることば(声帯の振動、内声)が意味を持つことである。「掴む」のではなく「指差す」ことである(乳幼児は指差せない)。いやヴィトゲンシュタイン風に言おう。手を挙げることから手が挙がることを引いたとき差が0になることである。ただその話をする前にまずフッサール現象学メルロ=ポンティの違いを明確にしておこう。現象学的還元とは自然的態度のうちに含まれている一般定立を宙吊りにすることで、意識から独立に、超越して定位された世界を遮断し、意識に従属させることでそれ以上遡ることができない純粋意識という始原的領野の獲得である。フッサールは以上のようなことを考えていた。しかし、メルロポンティにとって「還元の最も偉大な教訓は完全な還元が不可能であるということだった。」なぜなら「隅から隅まで世界と関係しているからであり」「何度還元を繰り返したところで志向の糸は断ち切ることができない」。世界という超越は確かに向こう側にあり、意味を分泌しつづけている。我々は小林秀雄ふうに言うなら「物はみない。物の名を呼ぶ。」ことによって意味が湧出する始原的な現場を取りこぼしている。だから、ことばが流通する場面の手前に身を置く必要がある。「科学はものを操作するけれども、ものに棲みつくことは断念している」からだ。メルロ=ポンティの、主張はゲシュタルト心理学の例を少し見れば容易に納得がいく。たしかに点を見るとき私は点だけを純粋に見るのではなく、背景を背景化している。ミュラー=リアー錯視においても長い線と短い線は長さが違うのではなく、次元が違うのだ。だから長さも違って見える。遠くに見える森の中で枯れ木の倒木だと思っていたもの(そこにはわずかな異和と緊張(相貌のきしみ)だけが予知されている)が山小屋であったことに気づいたとき、風景が一挙に再編される。個々の部分が連合され全体の意味が再構成されるのではなく(経験論はここを見逃した)全体から部分へと意味が再配分され全体の意味とともに部分の意味が共変する。世界はそれ自体あらかじめ動的で詩的な構造を持っているのだ。哲学は詩的であり詩は哲学的であり、古代哲学は詩と不可分であった。世界はそもそも隠喩的である。言語の恣意性は本当だろうか。岩石だけでなく意志もまた堅固でありうる。初夏の緑に、文字どおり「心が奪われて」初夏の緑を生きている。しかしながら、世界から「経験の次元」を引き算したものが客観世界であると言われると、科学との和解はいっそう遠のくように思える。そうではなくて【客観世界から生命のために光を引き算したものが「経験の次元」である】、とメルロ=ポンティは言うべきではなかっただろうか。少なくとも私にはそう思える。(いやベルグソンの影響をメルロ=ポンティは最初に強く受けているのだから、むしろなぜこの知覚の減算モデルを退けたのだろうか。)これは科学への敬愛を込めた私のラブレターかもしれない。十分な根拠はない。しかし、そう直感するのだ。これは経験世界の詩的さをいささかも損なうものではいし、かといって従来の唯物論でもない。唯物論は未・決断時における精神の自由や、超越論的意識を説明できないからだ。我々は本当に、世界に層として意味を重ねていくのだろうか。というより、減じていくのではないか。解釈可能性を段階的に減らしていく。それが知覚ではないだろうか。だとすれば、科学の観測器具、カメラ、これらがありうる知覚の中で最も純粋ではないか。もちろん「物体が知覚する」ということの消息は別に辿られる必要がある。しかし、そもそも人間も物体的基礎を持っているはずである。我々の知覚すら、物体(身体機械)の知覚だと言い得るということは見逃されてはならない。幻影肢だって、脳に向かう求心性神経を切断すればただちに治癒するのだ。ただ少なくとも、「客観世界は、あるが、経験不可能である」という現象学の立場は共有している。足し算か引き算か、それが問題なだけだ。その経験不可能なもの(客観世界なるもの)が経験そのものを描き取ろうとすることばを侵食しているので、一旦それを遮断して、経験の襞をかたどる言葉が探し求められなければならないという現象学の基本プログラムにも同意できる。

猿でもわかるジャック=デリダ。あるいは、なぜ私は山浦くんに、それ固有の表現形式を持つはずの映画を、言語化することを強いたのかーあるサタニストの弁明ー

脱構築とはなにか。 


一言で言うと、


現象を確固不動の特定の本体へと還元し凝固し「繰り返そ」(=不在者への開口部を塞ぐこと、反復とは違う)うとする力、すなわちみずからを何らかの本体の現象として確立するにあたって自覚的であれ非自覚的であれ、それに訴えて本体を現前せしめた幾つかの力、その由来を明らかにすることによって、その力の全面的な効力を失効させ、新たな相貌で反復させることでアプリオリズムに風穴を開けること。


である。


しかし、おそらく絶対に一言で書いても分からないので以下に概念の内容を明らかにしていく。

 


現実とは、表現である。世界とはテクストである。テクストであるからには不在が世界の外部として亡霊のように纏わりつく。痕跡とは不在のものの反復である。繰り返しではない。何かが反復の下で立ち現れるとき本体は不在において現前し、現前において不在である。重要なことに反復とは独立にそれ自体で存立する本体などないが、本体と現象は間接的に重なっている。そして差延とは痕跡の到来の仕方である。本体と現象の分割線は瞬間において引かれる。瞬間には追いつけない。世界のうちにはもうすでに差延の結果としての差異に基づく何らかの形象が書き込まれている。しかしそれは最初に与えられるのであって、それでいて何かの痕跡でもある。最初のものなのに、いつもすでに自己の反復であるという意味で初めから二重化されている。三角形なるものにはじめて出くわしたときも、その三角形は「三角形」の中のひとつの三角形であり、はじめから反復されている。初めて出会う赤色も、それが赤色であることを知っていないと赤色だと同定できない。初めて出会う概念すら過去形である。「○○って知ってる?」に対する応答、「知ってるよ」は現在形に見えて完了型である。真理も赤色も「もともとそうだった」という既在性をその中核に担っている。最初のものがすでにその当のものの反復であるとはそういう意味だ。その代表例は書かれたものである。エクリチュールとは「本体が不在の痕跡のこと」だ。エクリチュールはいつも脱構築できる。私たちの世界は痕跡に満ちているがいつどこでどう書き残されたのかは不明なのだ。現象のすべてがエクリチュールなのである。声もそうである。創造者としての神がいるとすれば人間もエクリチュールである。アカデミズムや大学や制度も法もそうである。マルクスの物象化への警鐘も不在の本体への信頼に対する警戒であった。人々は物象化によって現象から目を逸らし痕跡を残して立ち去った不在の者に対して暴力を振るう。




ところで、そういうエクリチュールを読むとき、心の中で、自分の声を聞いている。「声」は内言というしかたかもしれない。痕跡のみが存在し本体は痕跡が存在するためには不在でなければならない。現象のたびごとに本体が失われることが世界が現象するということである。何かが読まれうることの条件は作者が死ぬことである。だから、現象を生と呼ぶなら、死は生の条件である。なにものかが何かになるためには死によって切断されねばならない。痕跡は再び痕跡を残すことによってしか現象しない。それがなにかを読むということだ。読者は骸の蘇生なのだ。何かを読むとき内声というしかたで自分は自分の声を痕跡として聞いている。



読むことは書くことである。なぜなら、読むときにも脳は痕跡としてシナプスの発火パターンを脳内に刻んでいる。それがエクリチュールなのだ。黙読とは音読のことだ。絵画を見ることはその絵画を表現することだ。映画を見るとはその映画を見ている自分を表現することだ。現象することは現象する当のものがすでに自己自身の痕跡として二重化された反復であるばかりでなく、現象を受け取るものの下にもその痕跡を残すことで、反復は多重化されていく。最初のものですらそうであるところの反復は言語を媒介にして自己増殖していく。音、匂い、文字は言語的形象(意味)としてあらためて現象へともたらされる。言語は新たな感性的次元である。これによって言語は巨大な時間スパンの中でのほかの感覚的次元に反復可能性を与えるのだ。録画や録音は視覚や聴覚のエクリチュール化である。物質とは骸であり、しかしそれを介することで生命がはじめて復活するような生命の分肢である。カントを読むたびにカントを初めて読むことになるのである。書き手もまた自分が書いたものを読んでいる。というより、読みながら書いている。痕跡が何を言い得るかは、痕跡自身に問うしかない。作者の支配から作品は切り離されている。だから、誤読の可能性を擁護すべきである。【ただし誤読も正読も痕跡からのみ生じていなければならない。】作者が本当に言いたかったことも現象としてしか姿を現さない。痕跡が何の痕跡なのか、それは幾何級数的に散種する。タンポポの綿毛のように解釈は散種する。



ところで、現象が絶えず別の仕方で回付しうることを示すことを脱構築という。真理の既在性に回収されまいとする運動である。脱構築とは到来することが私の下で己をあらわにするのをじっと待つことであって、好き勝手に解釈することではない。前述のとおり、あくまで依拠するのは痕跡そのものだからである。世界という文学テクストを別の仕方で読むことである。まるで建設が解体でもあったバベルの塔のように、脱構築はまた新たな現象を構築するだけなので終わりがない。その脱構築された現象も脱構築されうる。脱構築は事実に関わる限り脱構築されないのだ。現象だけが別の仕方でありうるのではない。本体すらも別の仕方でありうるのだ。あまりにもある本体からの振れ幅の大きい解釈は、今度は違う本体を構築するからである。脱構築は野心的で、かつ控えめな運動である。なぜなら、自分を文学(刻みつける運動)テキスト(文字)であるということでもあり、自分もひとつの解釈であると認めることでもあるからだ。たえず転変する現象はその都度異なる本体を指し示してしまう可能性を孕んでいる。



ところで、世界はいつも同じものの現象を反復しようとする。これを傾向性という。これは繰り返しであって反復ではない。これによって暴力が生じる。暴力とは2つある。1つめが、現象が反復ではなく繰り返し(レペティシオン)にされることだ。2つめが、本体として規定することそれ自体がもつ暴力である。後者は構築することの暴力であるから脱構築すらもこれを免れない。現象の構築にすら暴力の契機があるとすれば、どんな現象も暴力になりうる。



ところで、脱構築とは正義のことである。応答することはすでに肯定である。正義とは「あらゆる他者の定位に先立つ肯定」の二回目の肯定なのだ。他者に対して「はい」と答えることは「はい、そして、はい」と答えることに同義である。一番目の肯定は他者(=別の解釈:本体と現象との間の開口部の不在者)の定位であり、二番目の肯定が脱構築である。他者の排撃やヘイトスピーチですら1度目の肯定である。なぜ二回目の肯定が正義なのかというと、砂場で土塊を砂に砕くことは暴力ではないからである。正義とは他者が他者であるがゆえに尊重することである。正義とは他者が抹消されたことを抹消されたものの抹消の痕跡すなわち灰において証言することである。正義を証しだてしようと思っても、その発言も発するその都度私が死んでいく以上、だれも確証してやることができない。だから正義は徹底的に秘匿される。脱構築脱構築できないのは正義が秘匿されているからであり、秘匿されているというのは「秘密がある」ということではなく「秘密がむしろない」ということだからだ。その秘密について、証すことが原理的に不可能なのだ。正義は何者(になる前である。)でもないからこそ脱構築できないのである。



世界がテクストである以上、私は夢を見ているかもしれないのだから、私自身も他者の全面受容と肯定が本当に事実なのかを知ることは原理的にできない。正義について語ることはできても私が正義であると言うことはできない。できるのは可能性の示唆だけだ。だからこそ証言するのである。そして正義はただちに証言しなければならない。なぜなら、この私以外にそれを証言することができるのは誰もいないからだ。そしてもしそれを今ここでただちに証言しないならば、その怠慢は正義を踏みにじることになるからだ。この意味で「正義は切迫している」。正義はいま・ここに対する責任を私に課すのである。ということは、唯一単独の主体者に普遍的善を指定する法など存在しない。法は反復ではなく繰り返しを要求するからだ。唯一単独者は証言を決定し(内実を定め)決断(行う)することをその都度求められている。今ここで戦争に反対しないことは賛成することになる、溺れる者を救わなければ、それは溺れさせるというひとつの行為に踏み切ったことになる。状況はいつも切迫している。正義とは単独の行動における単独の行為である。正義は存在しないが、そのような、闇の中での跳躍のような行為のみが正義たりうる。脱構築に終わりはないとはそういう意味である。ブランショのいう「中性的なもの」とは、このような決断の場面で中間項にとどまりえない受苦を表現しているのだ。決断が不可能なところにおいて決断するからこそ、そこに責任が生じるのだ。正義とは一個の狂気であり、暗闇の中で跳躍することである。だからこそ正義(脱構築)の脱構築不可能性を法の脱構築可能性から区別してやらなければならない。法は書かれたものであるからエクリチュールであり、いつでも脱構築可能なのである。そして脱構築されなければならない。正義(脱構築)は法を見直す原動力なのだ。

なぜ神は存在しないのか。あるいは、余は如何にしてサタニス徒となりし乎。


まず、「神が存在しないことは神の定義に矛盾する。なぜなら神とはもっとも実在的な存在者であって、定義より存在するからである。」というアンセルムスの神の存在論的証明は誤謬である。何度でも強調していいことだが、概念から存在は導けないからである。これでは証明ではなく、「三角形は3つの角を持つ」と言っているに等しいからだ。よって不可である。ところで神の存在を証明する方法は三種類しかない。存在論的証明(上記)、因果律証明(宇宙論的証明)、目的論的証明(別名自然神学的証明、すなわち素材を法則によって秩序付ける設計者というだけではなく素材そのものの創造者としての神)の3つである。後者の2つは最初の存在論的証明に帰着する。というのも、かりに「世界の必然的な原因としての神」もしくは「現にある世界の合目的性と秩序と美の起源としての神」という概念(たとえば「時間という条件を欠いた永遠」などの神学による定義)が推論されるにせよ、その必然的な存在者という概念からその存在者がまさしく存在することが導けると主張しているからである。そして概念から存在は導けない。後者の2つは神の存在論的証明を既に前提しているのである。あくまでスパゲッティモンスターと同じく神は蓋然的である。最高善としての神の存在は実践的理性の要請(倫理が意味を持つようにするため)であるに過ぎない。

 

 

では純粋理性の批判とはなにか。理性の合法的な要求を擁護し、根拠を欠いた越権を拒絶することだ。理性に「美」として与えられるのは、非現前の現前を不可能性との境界において呈示することまでである。どういうことか。そもそも理性は拒むことも答えることもできない問いを課せられている。その問いとはアンティノミーだ。アンティノミーとは経験的溯源の地平線である。つまり、世界は「現象の総括」(公園の広さはたとえば歩幅を基本単位としてつぎつぎに足しあわせて構想される。)であって空間と時間という形式とともに、経験的な溯源のその都度拓かれてくるので、ある地平線にたどり着くたびに新たな地平が所与になるということだ。限界の経験に接近すると経験の限界をいま超越しつつあるものが兆すということだ。経験を離れた世界は「存在しない」ということだ。つまりは無限(理性の理念)が経験の所与(感性の対象として与えられること)となることそれ自体がまさに矛盾である。世界は経験に「課せられている」のだ。世界の境界と経験の限界はそのつど覆いあう。経験の限界はそのたびごとに世界の限界である。この限界を「理念」という。中でも神にかかわる理念は「理想」という。時空は超越論的には主体の観念であり偶然(そうでなくてもよかったのでありその存在を自身以外の何者かに負っている。)であるから、現象の総括であるところの世界内のいっさいの存在者は経験的に条件付けられているから偶然的である。しかしながら、神は世界を超越しているので世界の外部に必然的な存在者、世界原因としてある。しかし世界外部の世界原因もそれが作動する時点では世界のうちに取り込まれ、偶然的なものとなる。ゆえに世界の内部に世界原因としての神は存在しない。神は現象ではなく必然的であり叡知的であり超感性的である。また現象の総括である世界には経験的溯源を超える外部は存在しない。

 

 

ということは、時空は経験的には実在的であり、超越論的には観念的なものである。これこそが合理論と経験論の調停であった。経験的にはいっさいの対象はかならず空間と時間のなかで経験される。つまり時空は超越論的には物自体に帰属しない。経験論的には物自体に帰属する。前者を超越論的観念性、後者を経験論的実在性と呼ぶ。だとすれば存在の条件が時空なら神をどうその条件から除外するか。カントはここに細心の注意を払った。時空が内外的な直観の条件に過ぎないことにしたのである。これにより神は世界を超越する。(初期のカントは、神は空間と時間の無限性としていたるところに現前すると考えている。つまり超越論的観念論はカントの転回を経て生まれたのだ。)カントにとって神は超越するが、その存在証明は不可能である。なぜなら、神は存在の形式を取らないからだ。つまり、両義的な意味で、はっきりと、「存在しない」のである。

 

 

猿には絶対に分からないハイデガーの基礎的存在論、あるいは存在と時間についてー存在の意味を求めてー

自分が存在していることは明白である。

なぜなら、デカルトのコギトがいう「私」とは、あの場合、私の存在のことだからである。(途中からデカルトは「私」という意味内容を「思考すること」から「思考するもの」に変えてしまっている。『省察』の133ページ、『何かわからぬ私のそのそれ』参照)

存在と時間は、存在論と人生論の話である。まず前者。存在に関わらないものなどあるだろうか。虚構すら非存在として存在に関わっている。

後者も実は同じである。人生論とは限界状況における存在論のことであるからだ。

ハイデガー哲学とはなにか。


端的に言っておこう。


「現存在が自己に出会うこと」

「目覚めること(開示)」

「存在の意味の解明」

「あるという言葉の意味の探求とあるという動作の意味の一致」

「結論を先取りして円環の道を行くこと」

「正解と手を切り、途上であること」

「自分が誰かをはっきりさせないこと(本当にこれでよかったのかと絶えず問いただされること)」

「隠れている根本を開示すること」


である。




問題がないとき、にもかかわらずそれを徹底的な破壊(存在しないほうがよいという答え)も視野に入れて問うこと(本来的かどうかを問う疑いの光)が人間の自由であり優位だ。逆にいうと、自由でなくなることはできない。だから、決定的な決断は自己を喪失しない限りできない。



ただし非本来的であってはいけないとは言っていない。すべての人に本来と非本来の2つの次元における自己があるが、「本来の自分を知りつつも非本来の自分に逃避している」もしくは「その区別すら知らないがために事実上問いから逃避している自分」というのとは別に、「その区別すら知らないがために事実上問いからたまたま逃避していない自分」もありうる。自己逃避をするなと言っているわけではなく、本来と非本来の極間でのアドホックな揺れ動きのなかでの自己の位置づけの問題である。



ではそもそも逃避とはなにか。生きている限り背負いこむはずのものを手放すこと。これを自己喪失といい、いつもその可能性がある。どこでか。大衆においてである。ダスマン(状況の中で泳いでいる、周囲と歩みが同じとき)、世界内存在においてである。しかし本来的な自己喪失もある。我を忘れて「他者」や理念のために尽くすときだ。後者の自己喪失があることはあまり知られていない。世間並みであることも熱中も自己喪失である。しかし自分と存在とのこのルーズな関係こそが人間が選択の自由に対してひらかれているということでもある。



人間は自由であるとは、俺はひとことも言ってない。選択の自由という姿をとって自分という場で起こる出来事に対して開かれているというだけである。なにかが起こりうるということ。そしてそれに対してオープンであるということ。これが人間に許された自由だ。選択しているのではなくあとになって選択したことがわかるのだ。「可能性にたいしてひらかれた形でしか生きていけない」という意味では不自由でもある。



ところで、ハイデガーにおいてしばしば問題になることだが、理解とはなにか。予期と検証の間の往復運動であると捉えている。アラビア語のようなものを読むときにアラビア語「として」とることである。我々は可能性に開かれた存在であるから、たえず先行的な理解を投錨してそれが対象のほうからまた投げ返される運動が理解である。この運動の止まった状態を逆に理解と呼ぶことがある。



現存在とは可能性のほうから自分を理解する、投げかけることで獲得された可能性を生きる存在者である。


ドイツ哲学の強みは言語に対する絶対的な信頼である。解釈学的な手続きもこの流れから来た。意味とは体験である。存在の意味は各人にひとつしかない。言葉の意味とは生活のなかで体験することだ。つまり、ハイデガーは言語と行為で別の側面として見ようとはしていないのである。


では眠りとはなにか。不在であると同時に現に存在すること。実は「ある」の意味を半ば知っている。自覚の手続きが問うこと。


世界に投げ込まれた存在としての自分の偶然性は自・存の2つの次元で現れる。自分でないことがあり得たこと、存在しないことがありえたこと、である。自存には他者と不在が隠れていて、この2つの否定生によってむしろ支えられている。自存は他と不在に支えられて可能になる。これが自存の持つ根本的な危うさであって、ここに気付くのが不安である。


世界はすべてのものの切っ先が自分の世界に向かっているような世界の在り方を呈する。その都度の状況的性格が世界の内容を決める。その世界の外には地としての「環境」がある。そして自己は存在に開かれているから、他者の世界と結びついた共同の世界もある。「私が」見るのが世界なのではなく「私にとって」「間接的に」現れるのが世界である。


安心にひたっているときですら、生きるとは気を遣うことである。客観的中立的な世界がまずあってそこに意味を与えていくのではない。世界は最初から便利であったり不便であったりするのだ。気遣いとはある存在がその存在なりの姿を保つようにすることである。ハイデガーの世界とは自分にとっての世界でありながら自分が中心となった世界ではない。なぜなら気遣いによって世界は引き寄せられているからだ。「一方が他方の中にある」のではなく「住まう」のである。「故郷」である。



空間になにかがあるという事態には2つの次元がある。存在的レベルと存在論的レベルだ。前者は使用条件による物の配置(テーブルは屋外なら椅子になってしまう)だが、後者は自己発見(あちらからこちらへの方向付け)である。



孤独になるのは「こちら」ではなく「あちら」が与えられないから。「こちら」は「あちら」を介してしか確認できない。つまり、世界内存在の世界は、はじめから不安定で依存的な構造なのだ。たとえば「いじめ」はこの構造をつかって成される反復的運動である。いじめはある空間を共有させることで現にそこにいるにもかかわらずそこに住み着くことができなくする。つまり「こちら」を排除するのではなく「こちら」を押しつけることによって成立するのだ。しかも「あちら」は実は見せかけであって本当は不在なため、「こちら」の裏面としての「あちら」しかないのである。被害者は空虚な「こちら」を押しつけられるのだが、押しつけてくる方の「あちら」も実は空虚なのである。空虚に耐え難い苦痛を感じるのが被害者の側だけであることを利用した暴力なのだ。存在の構造そのものが「いじめ」を可能にしている。



今述べたトピックたちからも明らかなように、存在の問いはいつも円環構造をとる。自分があらかじめ可能性として投げかけたことだけが可能性であり、「自分」とは「自分にとって」という間接性に過ぎない。唯一円環を抜け出す手がかりは、我々が不可避的に気分の受容体であることである。到来する可能性としてしか受け止めることができないものが死である。良心とは自分の存在の内部に完成の可能性が眠っているからである、良心の声を聞け。



時間とは到来するもの(マナー、身体、言語)がとる形式のことだ。存在の意味とはではなんだったのか。時間性のことである。我々は自分の存在の内に様々な時間を抱え込んでいる。そしてそれによって存在が到来するのを可能にしているのだ。語る者は現在にいても、語られる言語は時間の流れの中にある。身体には器官それぞれの辿った歴史がある。脳と呼吸器の歴史は異なる。服装には社会の辿った歴史が刻まれている。存在するとは時間性を抱え込むということだ。我々一人一人が途上に終わった『存在と時間』同様、存在論の途上にある。

猿でも分かる有徳の無神論、バールーフ=デ=スピノザ、あるいは、自由にものを考える無神論者は不敬虔か。ー我が良き友にして聡明なる物理学徒、山浦くんからの訴追を逃れてー

スピノザユダヤ人に追放されたユダヤ人である。無神論は白い目で見られた17世紀に、彼はいかなる宗派にも属することはなかった。オランダ人なのに、あのリベラルなオランダ共和国においてすら厄介者扱いされた。ポルトガル語が堪能で、学校ではヘブライ語を習い、ラテン語でものを書き、オランダ語で人々と会話し、フランス語とイタリア語が読めた。



オランダといえば、最強画家レンブラント、最強の国際法学者グロティウス、そして、フェルメール、と同い年なのがスピノザたんである。この国には、ジョンロックもいたし、ホイヘンスさんもいた。ピエールベールさんもいた。めっちゃいい国である。このちょーリベラルな国で、スピノザ無神論扱いされて禁書になった。スピノザにブチ切れたのは、リベラル陣営だったことは面白いね。(ファン=フェルト=ホイゼンさんとか左派カルテジアンやけど、スピノザのことめちゃめちゃ批判したからね。)


※以下の文章は、俺がいくつかの入門書を読んで、ある友人に送られた書簡という形式をとって、スピノザを紹介したものをここに載せたものである。この文字たちが、ネットの海の中を漂いながら、いつかきっと、誰かの笑顔になることを願う。


スピノザの書いた本の序文には、"バカな民衆が夢から覚めるとは思わないからこの本は別に民衆は読まなくていいです"って書いてある本もあるからそりゃブチ切れるよな。


スピノザってヤン=デ=ウィットさんっていうリベラル政治家がリンチにあって殺されたとき、家の前で『この上ない野蛮人どもめが!』って書いた大きな紙を貼り出そうとして、住んでた下宿の主人に、『さすがにそれはやばいよスピノザさん』ってとめられてるらしい。最高にかっこいい。あんたかっけぇよまじで。



あと、他にも本の中で、"『哲学は神学のはしため』とか馬鹿げたこと言ってるやつらはこの本を無視してください"とか書いてあるからね。まじ最高だからねスピノザ!神学と哲学を分離してんじゃねぇよって話です。(分離じゃなくて"両者は永遠に無関係です"ってんならええんやけどなぁ。まぁこれについては後述するわ。)


なぜかって?


だってさ、哲学と神学を分離したほうがいいよ派に言わせれば、悪魔ってのは比喩なんだろ?そんで、天使は、理性の及ばぬ神学的真理なんだろ?


え、なんで悪魔は比喩なのに天使は比喩じゃねぇの?



え、なんで天使が比喩で悪魔は理性の及ばないくらい正しいことじゃだめなの?


え、なんで、コーラをペプシにしたり、水の上を歩いたって話は、イエスのすごさを表すメタファーなのに、キリストが死んで3日後にゾンビになった話は、神学的真理なの?


メタファーとか言い出すなら、キリスト様が死んでから復活した話も別にメタファーかもしんねぇじゃん。それをメタファーっていうと聖書全体のストーリー展開に影響でるから譲れないとか舐めたこといいやがって。


それズルくね。


どっちが真理でどっちがメタファーかは、なんで神学に有利に決められんの。だったら復活だって神のすごさを示す隠喩かもしれないじゃん。 そうすると次のようなことを言うやつがでてくる。



『哲学と神学を分離したほうがいいよ派は、なんでもありな玉虫色のことばっかいってんじゃねーよバーカ!聖書なんか別にじゃあもうなくても別にええやないか!』



スピノザはこういうデカルトちっくな急進野郎から聖書を、そして、デカルトのボンサンス(いい具合にチューニングされた理性)を、守りたかったのである。



(山浦くんへ。というかさ、マジレスするとさ、"奇跡がたまに起きるからこそ神様がいることが分かるんだ"とか言うひとっていまだにたくさんいるけど、実際、神が自然法則を無視して、なんでも好き勝手にまさしく超自然現象を起こしうるとしたら、それって、逆にいうと、すべてのものが疑わしいってことやからな。だって自分の認識ですら神は歪められるんだから。だとしたら、そういう奇跡とか信じてるやつが最終的に行き着くのは無神論なんですよ。だから、カトリックにおいては神秘主義のほうがよっぽど危険思想なんです。あたりまえだけどね。)


ところで、


『田中くん、なんでも自由でいいのかな。』


とかいってくるチキン野郎には、スピノザは『いいにきまってんだろ!』と言うだろう。"神を人間ごときの想像力に置き換えるな!軽信を信仰に置き換えるな!"っていうのがスピノザのクッソ論理的なメッセージである。考える自由が敬虔を損ねるわけねぇだろ!


あのね、聖書ってのは基本的に理性に矛盾することがめっちゃ書いてあるわけじゃん。で、だけど、聖書は正しいっていう前提で読むわけじゃん。だからスピノザみてぇな天才が必要なわけ。ほんとキリスト教ってスピノザみてぇな天才の活躍に感謝すべきだよな。それなのにスピノザ無神論で禁書にするバカどものバカさってヤバくね。


じゃあどうするべきか。


まぁ要するに、まずは聖書が全部真理だってのをやめようぜってことです。文献学的にみりゃあ聖書全体には複数の著者がいることは分かってて、実際矛盾だらけなんだから、『分からないからすげぇんだ!』とかいうのをまずやめようぜってのがスピノザのアイデアです。


キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』を見て神を見ちゃうみてぇなやつにスピノザはブチ切れるってことです。


これからふたつのぶっ飛び聖書解釈を紹介しちゃいます!


モーセが『神は火である。』と言っているから、聖書に一字一句矛盾はねぇから、神は火なんだけど超自然的な火だから普通の火じゃねぇんだよ!とか言い出すのが、神学のやつら。代表はアルファカールさん。超自然的解釈ってやつです。


②同じ文、『神は火である。』を読んで、『聖書には矛盾があるようにみえるけどそれはメタファーだから、神は火なんじゃなくて、火っていうメタファーなんだよ』が哲学のやつら。理解するには哲学の理性でおkなやつら。代表はマイモニデスさん。急進カルテジアン解釈ってやつです。


じゃあスピノザはこの両者のぶっ飛びをどうやって調停したのか。ちなみに、俺が"ぶっ飛び"とか言って、汚い言葉を使うことで、スピノザのとっても繊細な哲学を汚い言葉で汚してるだろとかいう批判は俺にはあたらない。なぜなら、スピノザはこいつらふたつの立場を、『急進デカルト主義は理性をもって、超自然主義は理性なしをもって、どちらも狂っている。なんと滑稽な敬虔であろう。』って言ってるからだよ。


以下で見ていこう。


スピノザの主張はこうだ。銀河も地球も人間も石ころも神である。"祈りの神"だとか、"裁きの神"だとか、そういう人格神とかいうのはマジでよくわかんない。神とは自然のことである。神とは宇宙のことである。神、あるいは自然には目的もない。ただ自分自身の必然から存在し、一切を生み出しているだけだ。全ては必然であり、宇宙それ自体が神なんだから、神が異なった宇宙を作ることなんてありえない。なぜなら、神はひとりだからだ。だから最後の審判なんか絶対ないよってことです。なぜなら、審判もなにも、すべては必然だから。スピノザユダヤ人だけど、別にユダヤ人が神に選ばれてるわけでもない。どんな教義が真理と合致するかなんてどうでもいい。なぜなら、所詮は教義なんて人間の想像力の範疇にしかねぇし、別にそれはイスラームだろうが仏教だろうが関係ねぇ。これがスピノザの主張である。



スピノザの神は別に命令とかしねぇ。神あるいは自然についての知的認識が、われわれ自身のコナトゥスを最大化させ、自己肯定が至福に導くのである。



じゃあ、てことはさ、スピノザの神は人格神である聖書の神とは明らかに矛盾してるわけだが、じゃあどうやって聖書を見てたんであろうか。実はものすげぇシンプルで鋭いんだわ。てか、宗教をスピノザは肯定できんの?



スピノザ曰く、聖書とは服従と敬虔を教えているだけの矛盾だらけの書物である。目を覚ませという。聖書が全部正しいっていう両者①と②の前提がそもそも間違ってんだわ。聖書は思弁的真理なんかなんも知らないで、にもかかわらず、ちょっとだけ、何らかの正しいこといってるわけ。



聖書は神がどうやって世界において働くか、作用するかみたいなことを教えてる本じゃねぇんだから、そこにそれを読み込んでんじゃねぇよって話。


"解釈"とか"裏の意味"とか言ってんじゃねぇよ。聖書と理性の二者択一をせまってんじゃねぇよ。どちらも"そこそこ"正しいんすわ。


聖書ってのは言語なの。言語ってことは、意味なの。真理と意味は違うの。おk?ってことです。


つまりどういうことでしょうか。


『神は火である』ってのは、神は火であるっていう言葉なの。別にそういう文字が紙に書いてあるってだけ。だから矛盾じゃないじゃん。『山浦くんは田中である』っていう言表表現は意味としては通ってるだろ。疑わしいけどね。


なんか、聖書によると、ヨシュアってひとは太陽の運動を止めたことがあるんだけど、いや別にそういうストーリーは別に言語としては書けるだろうってことです。


いやべつにそんなこといったらスターウォーズだって嘘だからね。宇宙空間でビームの音とかしねぇから。でも、べつにそういうスターウォーズってあってよくねってことです。


なんでかって?


だって、スターウォーズ面白いから。



で、スピノザは、預言者を『預言者は、無知であり得たし、事実無知であった。』って言ってる。かっこよすぎ。


まぁ、ていうかさ、マジレスすると、預言者は無知だからすげぇわけよ。なんで預言者は預言できるのか言えたらそれ多分嘘じゃんだって。


理由も知らないのになんか知ってるからすげぇって話やろ。だから、預言者って無知なんすよ。それでええやん。啓示ってのは外部から来るんすわ。


まぁ要するに、


"ヨシュアが太陽止めれるけどその理由はしらねぇよ俺は人間だから派解釈"も間違ってるし、"ヨシュアは太陽止めれないけど、止められるくらいすごいってことだよ派解釈"も間違ってるってことです。



その理由を以下に示します。



だって、もし"超自然的解釈"が正しいとすると、じゃあそういうぶっ飛び解釈ができねぇやつの方が人口の99パーセントなのになんで預言者はそんな分かりにくいこというわけ。てか、なんでそんなぶっ飛びなこと大ベストセラーの一般書である聖書にかくわけ?もっと分かりやすく言えよ。


はい矛盾。


もし、"ぶっ飛び理性解釈"が正しいとしてもおかしいやろ。だって、なんで大ベストセラーの一般書であるバイブルにそんなぶっ飛びメタファー解釈ができる人しか読めねぇような回りくどい言い方するわけ?


はい矛盾。


スピノザは、"聖書は一般書"ですって言いたかったんだと思うんだよね。すっげぇ売れてる中公文庫みてぇなもんです。



くそ難しく言うと、スピノザは、真理条件ではなく主張可能性条件を問題にしてるってことです。


だから、聖書のメッセージってのは、スピノザによると、マジな話、一文に要約できる。



『あるところに、すごい、いい人がいて、神の方からやってきて、神のほうからいろいろ教えてくれて、それは要するに、神を愛して他人を自分のように愛してくださいってことでしたってことでした。』



はいこれ聖書↑。



これを言語学的にすげぇまわりくどいお話にしたのが聖書だってことです。ヨシュアが太陽の公転とか自転を止めれるとか、ペプシを頑張ればコーラにできるみてぇなマジ矛盾がたくさんあるのは、スターウォーズのプリクエルにおいて自分で頑張って作ったシースリーピーオーをアナキンスカイウォーカーが新たなる希望になったらすっかり忘れてるのと同じだし、新たなる希望においては"お母さんは優しいひとだった"とか言ってたプリンセスレイアが、なんかお母さんの子宮から飛び出した直後にお母さんであるパドメアミダラさん死んどるから、優しいかどうかなんてお前にはわかんねぇじゃねぇかっていうのと同じってことです。


ほんとかよwって思いましたか?



スピノザも神学政治論の下巻でこう言ってます。引用します。クッソ面白いのでここだけ原典読んでください。


『聖書そのものからわれわれは、何らの困難、何らの曖昧さもなしに、その主要教義を把握しうる。それはすなわち、神を何ものにも増して愛し、隣人を自己自身の如く愛するということ、これである。』



これである、どーん!


スピノザはこんなことも言ってます。


『たとえ聖書に矛盾が多くあっても、それを受け入れるものが虚偽であると知らなければかまわない。さもないと、その者は必然的に反逆者になってしまうだろうから。』



要するにどういうことか。



神が火であろうが、霊であろうが、目に見えない存在であろうが、そんなことは信仰とはなんの関わりもない。どんな風に神を解釈するかはそれぞれ独自の権利があっていい。ただ、信仰にも文法がある。日本語を喋るからには、なにをしゃべってもいい。スターウォーズを日本語吹き替えでやってもいい。でも、日本語の文法を守らなきゃいけない。もし日本語の文法を守らないと、自由にスターウォーズすらできない。だから、それと同じように、正義と愛を行う敬虔なひとである限り、そのひとは神に服従していることに定義上なっちゃってて、神は唯一であり、お手本であり、普遍的であるためにいたるところに偏在し、最強であり、最高であり、服従するひとは救われるしそうじゃないひとは地獄行きだし、地獄行きなひとも悔い改めれば天国チャンスがワンチャンあるっていう文法で聖書の内容を書かざるをえないし、読まざるをえないよねってこと。


ちなみに、スピノザはこの文法には従ってない。なぜなら、スピノザの神は、別にお手本でもなんでもねぇから。つまり、聖書の人格神を、信じてるってことは、そこから必然的にある文法を信じてるよねってことと同義ってことがスピノザは言いたかった。つまり、難しく言うとさ、スピノザは聖書を構造化してやったんだわ。それがなければ聖書ではなくなり、それがあるものは必ず聖書であるってことです。聖書がたとえ真でなくても正しい語り方ってやっぱりあるわけよ。どんだけスターウォーズが科学的に嘘っぱちじゃねぇかって言ったって、スターウォーズは物語として正しい語り方してるわけよ(とくに4作目はな。)。そこなんすよね。



もっと分かりやすくいうと、敬虔なひとはそれだけで敬虔ですってことです。ユダヤだろうが、イスラームだろうが、理性に従う哲学者だろうが、どういう理由に基づいていようとも、敬虔な行いをしたということは、敬虔ですってことです。その敬虔なことをした理由は多分この文法の枠内で語られるなんらかのストーリーによって記述されるんだけど、多分そのストーリーは構造の枠内だから何であろうと大した問題じゃなくて、別にスパゲッティモンスターのことが聖書に書いてあったとしても、別にそれはそれで文法の枠内でスパゲッティモンスターのことを書くんじゃないと聖書に書けないから、それでええんちゃうかってことです。スパゲッティモンスターも正義と愛の文脈でしか語れないってことです。別にスピノザがそうだったように、最大の自己肯定から生じるよいことをしたいという欲望(コナトゥス)によってよいことをした場合にも、隣人愛の教えにかなってる時点でその人は敬虔ってことです。てか、それが『恩寵』って言葉の真の意味です。


『敬虔か不敬虔かの基準は、その人が神の隣人愛命令に服従するか否かである。服従するなら敬虔である。』ってことです。


で、スピノザは、ついに"ちゃんと"哲学と神学を分離するわけ。


神学の目的は服従と敬虔です。哲学の目的は真理ですってな。哲学は自然から真理を導き、神学は言語と啓示と物語から敬虔を導くわけよ。どっちもすげぇ楽しそうだよなぁ、山浦くん。


まぁ、要するにさ、啓示宗教を嘲ったり、形而上学と神学を混同したりするいまのインテリよりずっとスピノザのほうが頭がいいことがわかる。


分離派は、分離しろっていうくらいだから、分離しなきゃいけないと思ってる。つまり、分離しなきゃ関係しちゃうと思ってる。だから間違ってるわけ。スピノザは哲学と神学の分離派じゃなくて、無関係派なんです。哲学と神学は関係しちゃいけないんじゃなくて、どんだけ関係しようと頑張っても、研究してる次元が違うから絶対に関係できないってことです。平行線なんです。


じゃあ、隣人愛による国家ってどんな国かっていうと、他者の権利をあたかも自分の権利のように守る国のことです。その必要十分条件ってなんでしょうか。聖書と同じように国家も構造化できるっしょ。


ところで、『よろしくお願いします』っていう挨拶あるけど、あれって倫理上、明らかに間違ってますよね。



みんな自分の利益の方が大事なのに、よろしくお願いしますって言ってくるやつってマジでなんなんでしょうか。



人間はみんな、利己主義です。認めましょう。みんな、まずは自分です。なぜなら、これが人間の本性であり、自然なんです。『よろしくお願いします』は背理であるとスピノザなら言うでしょう。


リヴァイアサンです。基本的にみんな自分のことしか考えてません。


だから、第三者による暴力装置が必要なんです。自然権の委譲といいます。でも、自然権の委譲は力の委譲を伴わなければ意味がない。ここまでならホッブズもやれた。



でも、ホッブズスピノザの違いは、社会契約を聖書に見出して、宙に浮かせないことである。ヘブライ人が出エジプトのときに、一回奴隷解放されとるやん。そんときに自然状態に戻ったことにして、そのあとユダヤの律法に自然権譲渡したことにしたわけよ。そしたら、聖書の文法つかって、社会契約説かけるやろ。民主共和政体を、神の国ってことにしてな。ヘブライの伝統である"不在の神"による、"本人たちも気づかない民主統治"である。民主統治ってのはさ、すぐ暴走すんだよ。なんでかっていうと、民主ってことは王様が民衆ってことやろ。で、民衆が王様になるとすぐ腐敗するわけ。世論の専制統治になってすぐマイノリティが舐められるわけ。


だから、どうすればいいかっていうと、王様が自分が王様であるってことに気づかなければいいわけ。


↑これがスピノザの天才的な判断です。


王様は不在の神であって、その言葉を伝えるのが預言者であるモーセなんだけど、でも、その神の言葉に従うことは、出エジプトのときみんなで契約によって決めてるわけ。これ、自覚なき社会契約説ですよ。共同幻想ですわ。これを、神政国家テオクラチアっていいます。




もっと分かりやすく言うと、"無自覚で徹底的な"聖教一致です。



"実質"民主政体といってもいい。実に巧妙である。あまりにもうまくいってしまって領土もどんどん増えたので、彼らは自分を選民だと勘違いしたのである。これがユダヤ人の選民思想の起源だとスピノザはいう。しかしながら、ユダヤ人の成功の根拠は、神に選ばれていることではなく、無知の上に循環する最強の政体にあったのだ。



だからまるで選ばれし民族に見えてしまった。モーセは無知で良心しかないし、外部から啓示を受けただけだからこそ民衆の理性による詮索をまぬがれたし、また、だからこそ、詐欺師として殺されたりしなかったし、また逆に、民衆は無知であるから、"ヘブライに伝統の不在の神"があたかもいるかのようにおそれているからこそ、モーセの預言には神の息吹という拘束力が吹き込まれていて、法律が社会を円滑にしたのである。(法律なんか守らなくていいよとかいうおせっかいなイエス様とかいう新たな預言者が現れるまではね。まぁ、イエスだって聖書の敬虔文法の枠内でしかストーリーを原理的には語れないから、スピノザは別にイエスもまぁ普通に肯定するけどね。まぁでも、神の受肉とか復活は、嘘っぱちだけどな。)


社会契約説をスピノザは聖書語で書き直したってことです。社会契約説を聖書語で書き直すとなにがすごいかっていうと、人間は本性上、宗教的な生物なんだけど、その本性を統治構造に組み込むことで社会が最強になるからだよ。しかも、めっちゃリベラルですげぇ自由な国になるわけ。だってほんとは神なんかいないんだもん。



社会契約を服従文法をつかって、聖書にしちまえば、バカは文法にマインドセットをイジられとるから、服従するやろってことです。サピアウォーフ仮説みてぇなもんで、やってることは伊藤計劃の『虐殺器官』って小説と同じですけど、あの作家のやり方より100倍かっこいいです。


どういうことかっていうと、



聖書から人間を服従させる文法を構造化してから取り出して、その文法を使って今度は社会契約説を書いてるわけ。これをひとりでやった男がバールーフ=デ=スピノザ


つまりさ、逆に言うと、民主政体とかいうとるけど、そんなもん多かれ少なかれ神学的じゃねってことですわ。


だって、社会契約説とか実際フィクションじゃん。で、フィクションへの服従は神学の分野だっておれさっき言ったやろ。だからさ、神学舐めてんじゃねぇぞってことです。


18世紀に『三大詐欺師』っていう本がヨーロッパにはあって、その詐欺師とはモーセ、キリスト、ムハンマドです。すげぇ有名な本で、聖書は支配の道具なんだっていうアナーキーなアングラ本です。


じゃあ、でも、え、なんで詐欺じゃだめなの?


え、別に詐欺でええやん。だいたいの社会とか、詐欺なんだから。



んなこと言ったら、小説だって別に詐欺だろ。詐欺だって面白けりゃ、俺は読むってことです。




ところで、先ほどと同じように、『神の国』の文法も全部書き出せますよね。



神の国の国民であるからには、論理的帰結として、以下の文法に従っているということです。まず、最高権力に従っているのでなければ正しいひとじゃねぇから捕まるってこと。平和のために活動してるならそれは聖書の次元なら隣人愛にあたるから敬虔ってことになるってこと。不敬虔ってのは最高権力にそむくってこと。それは統治権を奪おうとするってことですってこと。


神の国に住んでるひとってのは、このルールに従わざるをえないんすよ。だって必要条件だから。ルールは決まってる。ルールの内容はこの文法でかくからどうでもいい。『服従の理由ではなく、服従自体が臣民を作り出す』っていうのはそういう意味です。社会の構成員が同じ意見である必要なんかないんですわ。みんなが同じものを恐れてればね。例えば、死とか、暴力とかね。



てことはさぁ、"神の国の再興"とかいまだに言ってるのはスピノザ的にはナンセンスなんすわ。なんでかっていうと、ここはすでに神の国だから。



てことはですよ。


スピノザに対して不敬虔だとか無神論だとか言えないはずなんだよね。だって、敬虔か不敬虔かを決めるのはオランダ共和国がその代理を勤めてる(本当は不在でフィクションかもしれない)神であって、実質的にはオランダ共和国が決めれるわけ。だから、いまさら聖書とかいう矛盾だらけの本持ってきてそれに合致しねぇからエチカは不敬虔だっていうのはオランダ共和国の統治権の侵害だから、むしろ不敬虔なのはお前の方だってことです。俺を不敬虔だっていうためにいまさら聖書なんか持ち出してきてんじゃねぇよ。



ということで、タイトル『自由にものを考える無神論者は不敬虔か。』に対して、答えを書いておきますね。


自由にものを考える無神論者が不敬虔なわけがねぇだろボケが!!!!



さーて、まとめましょう。



俺は以下のことが言いたい。


宗教は背理である。ゆえに真理として信じる必要はまったくない。しかし、肯定する必要がある。なぜかというと、もし宗教を真理として信じてしまうと、哲学や科学によってある日突然攻撃されるんじゃないかとビクビクして夜も眠れないし、実際、宗教を信じてると、宗教を肯定できないからである。だって、科学や哲学に『お前ら、ペプシがコーラになると思ってるなんてバカじゃねぇの?』って攻撃される可能性がいつもお前にはつきまとうんだが、その理由はお前が宗教を真理と同一視してることが原因なんだもん。だとすると、本当のところで、その不安のタネである宗教をお前は肯定することができてねぇんだわ。だからだよ。



だから以下のことを忘れないでほしい。



思想言論の自由は敬虔と共和国の平和を損なうことなしに許容されるのみならず、この思想言論の自由が除去されれば、平和と敬虔さも同時に除去されます。なぜなら思想言論の自由は敬虔であること、平和であることのための必要十分条件だからです。


なぜなら、信仰が敬虔かどうかを決めるのは信仰内容ではなくその行為の正しさによるのであり、その正しさを決めるのは服従の大切さを説く聖書ではなく統治権力である。しかも羽根のない人間に空を飛ばしたり、嫌いなものを好きにさせたりすることは、(それは人間の本性なので)権力には不可能なので、統治権力といえども構成員の本性を変えることは原理的にできないし、自然権を委譲することは考える自由を放棄することではないってことです。なぜなら人間は本性上考える生き物だからです。ゆえに、人間は行為の上で法に従っている限り、何を言っても書いても考えてもいいのである。逆に、この社会契約を損なうような言動は大逆罪であり、たとえば聖書というベストセラー本の権威でもって言論を封殺することなどあってはならない。つまり、法さえ守っていれば自主規制をする必要など、なにもないのである。敬虔と宗教は隣人愛と公正という行為の中にあればよいのである。法の支配もただ行為の中にあればよいのである。いかなる啓示宗教も真理を教えない。信仰なんか別に無知でもええやん。だって、神の国の秘訣は"モーセの無知"にあるんだから。それゆえにこそ、真理を知る者は宗教と信仰を肯定する。


行為が、どうかである。

スパゲッティモンスターへの服従と愛のために、隣人を救った男がいたとすれば、彼は素晴らしい。


悪魔への服従と愛のために、どれだけ遠くにいても盟友を決して忘れなかったあるサタニストがいたとすれば、彼は友と呼ぶに値する。



以上