Subscribed unsubscribe Subscribe Subscribe

猿でも分かるメルロ=ポンティ、あるいは如何にして山浦くんとの見解の相違を止揚するかー時間・科学・隠喩ー

私には最近気になっていることが3つある。




 

デリダが自らをも解釈とするほど徹底的な相対主義の闇の中で、あえいでいるように見えてきたこと。

 

⑵時間の流れについてだ。私がみたところ、時間が流れるためには3つの非存在が必要である。「かつて」「いつか」そして「この現在を非存在にする非存在」である。この3つがないと時間は流れない。流れるというのは川の比喩だがそれは明らかに失敗していることが分かるだろう。時間は現在があるから流れるのだから川には船を浮かべなければならないが、その船は流れと同時に川を進んでいくのだから時間は流れるわけがないのである。しかも、川には上流と下流があるが、時間において過去はもうないし、未来はまだないはずだ。要するに時間を川の比喩で説明することは「3つの不在」が不在であるために不可能なのである。つまり時間とは存在ではなく生成なんだよな。哲学って学問である限り経験の総体に依拠するしかないから、この問題は解決しなそう。だって経験そのものがもつ構造なんだもんこれって。一方で、詩人の言葉は永遠の現在において紡がれる。花を見るとき、花が自分を見ているような。意識は再帰的構造を取るから自己定位には時差が原理的に必要だ。コギトも無言のコギトであったはずなんだ。考えていることにデカルトが気づくのは考えた後だろ。

 

⑶科学(山浦くん)と哲学がどう和解するかだ。そもそもひとつだったのだから、和解できないはずはない。

 

今回は⑶のテーマで少し読書をしたので考えたことを以下に書いてみる。

 

身体図式とはなんだろうか。ことばが身振りであり、全身の振動が怒りという意味を持つように、身振りであることば(声帯の振動、内声)が意味を持つことである。「掴む」のではなく「指差す」ことである(乳幼児は指差せない)。いやヴィトゲンシュタイン風に言おう。手を挙げることから手が挙がることを引いたとき差が0になることである。ただその話をする前にまずフッサール現象学メルロ=ポンティの違いを明確にしておこう。現象学的還元とは自然的態度のうちに含まれている一般定立を宙吊りにすることで、意識から独立に、超越して定位された世界を遮断し、意識に従属させることでそれ以上遡ることができない純粋意識という始原的領野の獲得である。フッサールは以上のようなことを考えていた。しかし、メルロポンティにとって「還元の最も偉大な教訓は完全な還元が不可能であるということだった。」なぜなら「隅から隅まで世界と関係しているからであり」「何度還元を繰り返したところで志向の糸は断ち切ることができない」。世界という超越は確かに向こう側にあり、意味を分泌しつづけている。我々は小林秀雄ふうに言うなら「物はみない。物の名を呼ぶ。」ことによって意味が湧出する始原的な現場を取りこぼしている。だから、ことばが流通する場面の手前に身を置く必要がある。「科学はものを操作するけれども、ものに棲みつくことは断念している」からだ。メルロ=ポンティの、主張はゲシュタルト心理学の例を少し見れば容易に納得がいく。たしかに点を見るとき私は点だけを純粋に見るのではなく、背景を背景化している。ミュラー=リアー錯視においても長い線と短い線は長さが違うのではなく、次元が違うのだ。だから長さも違って見える。遠くに見える森の中で枯れ木の倒木だと思っていたもの(そこにはわずかな異和と緊張(相貌のきしみ)だけが予知されている)が山小屋であったことに気づいたとき、風景が一挙に再編される。個々の部分が連合され全体の意味が再構成されるのではなく(経験論はここを見逃した)全体から部分へと意味が再配分され全体の意味とともに部分の意味が共変する。世界はそれ自体あらかじめ動的で詩的な構造を持っているのだ。哲学は詩的であり詩は哲学的であり、古代哲学は詩と不可分であった。世界はそもそも隠喩的である。言語の恣意性は本当だろうか。岩石だけでなく意志もまた堅固でありうる。初夏の緑に、文字どおり「心が奪われて」初夏の緑を生きている。しかしながら、世界から「経験の次元」を引き算したものが客観世界であると言われると、科学との和解はいっそう遠のくように思える。そうではなくて【客観世界から生命のために光を引き算したものが「経験の次元」である】、とメルロ=ポンティは言うべきではなかっただろうか。少なくとも私にはそう思える。(いやベルグソンの影響をメルロ=ポンティは最初に強く受けているのだから、むしろなぜこの知覚の減算モデルを退けたのだろうか。)これは科学への敬愛を込めた私のラブレターかもしれない。十分な根拠はない。しかし、そう直感するのだ。これは経験世界の詩的さをいささかも損なうものではいし、かといって従来の唯物論でもない。唯物論は未・決断時における精神の自由や、超越論的意識を説明できないからだ。我々は本当に、世界に層として意味を重ねていくのだろうか。というより、減じていくのではないか。解釈可能性を段階的に減らしていく。それが知覚ではないだろうか。だとすれば、科学の観測器具、カメラ、これらがありうる知覚の中で最も純粋ではないか。もちろん「物体が知覚する」ということの消息は別に辿られる必要がある。しかし、そもそも人間も物体的基礎を持っているはずである。我々の知覚すら、物体(身体機械)の知覚だと言い得るということは見逃されてはならない。幻影肢だって、脳に向かう求心性神経を切断すればただちに治癒するのだ。ただ少なくとも、「客観世界は、あるが、経験不可能である」という現象学の立場は共有している。足し算か引き算か、それが問題なだけだ。その経験不可能なもの(客観世界なるもの)が経験そのものを描き取ろうとすることばを侵食しているので、一旦それを遮断して、経験の襞をかたどる言葉が探し求められなければならないという現象学の基本プログラムにも同意できる。

猿でもわかるジャック=デリダ。あるいは、なぜ私は山浦くんに、それ固有の表現形式を持つはずの映画を、言語化することを強いたのかーあるサタニストの弁明ー

脱構築とはなにか。 


一言で言うと、


現象を確固不動の特定の本体へと還元し凝固し「繰り返そ」(=不在者への開口部を塞ぐこと、反復とは違う)うとする力、すなわちみずからを何らかの本体の現象として確立するにあたって自覚的であれ非自覚的であれ、それに訴えて本体を現前せしめた幾つかの力、その由来を明らかにすることによって、その力の全面的な効力を失効させ、新たな相貌で反復させることでアプリオリズムに風穴を開けること。


である。


しかし、おそらく絶対に一言で書いても分からないので以下に概念の内容を明らかにしていく。

 


現実とは、表現である。世界とはテクストである。テクストであるからには不在が世界の外部として亡霊のように纏わりつく。痕跡とは不在のものの反復である。繰り返しではない。何かが反復の下で立ち現れるとき本体は不在において現前し、現前において不在である。重要なことに反復とは独立にそれ自体で存立する本体などないが、本体と現象は間接的に重なっている。そして差延とは痕跡の到来の仕方である。本体と現象の分割線は瞬間において引かれる。瞬間には追いつけない。世界のうちにはもうすでに差延の結果としての差異に基づく何らかの形象が書き込まれている。しかしそれは最初に与えられるのであって、それでいて何かの痕跡でもある。最初のものなのに、いつもすでに自己の反復であるという意味で初めから二重化されている。三角形なるものにはじめて出くわしたときも、その三角形は「三角形」の中のひとつの三角形であり、はじめから反復されている。初めて出会う赤色も、それが赤色であることを知っていないと赤色だと同定できない。初めて出会う概念すら過去形である。「○○って知ってる?」に対する応答、「知ってるよ」は現在形に見えて完了型である。真理も赤色も「もともとそうだった」という既在性をその中核に担っている。最初のものがすでにその当のものの反復であるとはそういう意味だ。その代表例は書かれたものである。エクリチュールとは「本体が不在の痕跡のこと」だ。エクリチュールはいつも脱構築できる。私たちの世界は痕跡に満ちているがいつどこでどう書き残されたのかは不明なのだ。現象のすべてがエクリチュールなのである。声もそうである。創造者としての神がいるとすれば人間もエクリチュールである。アカデミズムや大学や制度も法もそうである。マルクスの物象化への警鐘も不在の本体への信頼に対する警戒であった。人々は物象化によって現象から目を逸らし痕跡を残して立ち去った不在の者に対して暴力を振るう。




ところで、そういうエクリチュールを読むとき、心の中で、自分の声を聞いている。「声」は内言というしかたかもしれない。痕跡のみが存在し本体は痕跡が存在するためには不在でなければならない。現象のたびごとに本体が失われることが世界が現象するということである。何かが読まれうることの条件は作者が死ぬことである。だから、現象を生と呼ぶなら、死は生の条件である。なにものかが何かになるためには死によって切断されねばならない。痕跡は再び痕跡を残すことによってしか現象しない。それがなにかを読むということだ。読者は骸の蘇生なのだ。何かを読むとき内声というしかたで自分は自分の声を痕跡として聞いている。



読むことは書くことである。なぜなら、読むときにも脳は痕跡としてシナプスの発火パターンを脳内に刻んでいる。それがエクリチュールなのだ。黙読とは音読のことだ。絵画を見ることはその絵画を表現することだ。映画を見るとはその映画を見ている自分を表現することだ。現象することは現象する当のものがすでに自己自身の痕跡として二重化された反復であるばかりでなく、現象を受け取るものの下にもその痕跡を残すことで、反復は多重化されていく。最初のものですらそうであるところの反復は言語を媒介にして自己増殖していく。音、匂い、文字は言語的形象(意味)としてあらためて現象へともたらされる。言語は新たな感性的次元である。これによって言語は巨大な時間スパンの中でのほかの感覚的次元に反復可能性を与えるのだ。録画や録音は視覚や聴覚のエクリチュール化である。物質とは骸であり、しかしそれを介することで生命がはじめて復活するような生命の分肢である。カントを読むたびにカントを初めて読むことになるのである。書き手もまた自分が書いたものを読んでいる。というより、読みながら書いている。痕跡が何を言い得るかは、痕跡自身に問うしかない。作者の支配から作品は切り離されている。だから、誤読の可能性を擁護すべきである。【ただし誤読も正読も痕跡からのみ生じていなければならない。】作者が本当に言いたかったことも現象としてしか姿を現さない。痕跡が何の痕跡なのか、それは幾何級数的に散種する。タンポポの綿毛のように解釈は散種する。



ところで、現象が絶えず別の仕方で回付しうることを示すことを脱構築という。真理の既在性に回収されまいとする運動である。脱構築とは到来することが私の下で己をあらわにするのをじっと待つことであって、好き勝手に解釈することではない。前述のとおり、あくまで依拠するのは痕跡そのものだからである。世界という文学テクストを別の仕方で読むことである。まるで建設が解体でもあったバベルの塔のように、脱構築はまた新たな現象を構築するだけなので終わりがない。その脱構築された現象も脱構築されうる。脱構築は事実に関わる限り脱構築されないのだ。現象だけが別の仕方でありうるのではない。本体すらも別の仕方でありうるのだ。あまりにもある本体からの振れ幅の大きい解釈は、今度は違う本体を構築するからである。脱構築は野心的で、かつ控えめな運動である。なぜなら、自分を文学(刻みつける運動)テキスト(文字)であるということでもあり、自分もひとつの解釈であると認めることでもあるからだ。たえず転変する現象はその都度異なる本体を指し示してしまう可能性を孕んでいる。



ところで、世界はいつも同じものの現象を反復しようとする。これを傾向性という。これは繰り返しであって反復ではない。これによって暴力が生じる。暴力とは2つある。1つめが、現象が反復ではなく繰り返し(レペティシオン)にされることだ。2つめが、本体として規定することそれ自体がもつ暴力である。後者は構築することの暴力であるから脱構築すらもこれを免れない。現象の構築にすら暴力の契機があるとすれば、どんな現象も暴力になりうる。



ところで、脱構築とは正義のことである。応答することはすでに肯定である。正義とは「あらゆる他者の定位に先立つ肯定」の二回目の肯定なのだ。他者に対して「はい」と答えることは「はい、そして、はい」と答えることに同義である。一番目の肯定は他者(=別の解釈:本体と現象との間の開口部の不在者)の定位であり、二番目の肯定が脱構築である。他者の排撃やヘイトスピーチですら1度目の肯定である。なぜ二回目の肯定が正義なのかというと、砂場で土塊を砂に砕くことは暴力ではないからである。正義とは他者が他者であるがゆえに尊重することである。正義とは他者が抹消されたことを抹消されたものの抹消の痕跡すなわち灰において証言することである。正義を証しだてしようと思っても、その発言も発するその都度私が死んでいく以上、だれも確証してやることができない。だから正義は徹底的に秘匿される。脱構築脱構築できないのは正義が秘匿されているからであり、秘匿されているというのは「秘密がある」ということではなく「秘密がむしろない」ということだからだ。その秘密について、証すことが原理的に不可能なのだ。正義は何者(になる前である。)でもないからこそ脱構築できないのである。



世界がテクストである以上、私は夢を見ているかもしれないのだから、私自身も他者の全面受容と肯定が本当に事実なのかを知ることは原理的にできない。正義について語ることはできても私が正義であると言うことはできない。できるのは可能性の示唆だけだ。だからこそ証言するのである。そして正義はただちに証言しなければならない。なぜなら、この私以外にそれを証言することができるのは誰もいないからだ。そしてもしそれを今ここでただちに証言しないならば、その怠慢は正義を踏みにじることになるからだ。この意味で「正義は切迫している」。正義はいま・ここに対する責任を私に課すのである。ということは、唯一単独の主体者に普遍的善を指定する法など存在しない。法は反復ではなく繰り返しを要求するからだ。唯一単独者は証言を決定し(内実を定め)決断(行う)することをその都度求められている。今ここで戦争に反対しないことは賛成することになる、溺れる者を救わなければ、それは溺れさせるというひとつの行為に踏み切ったことになる。状況はいつも切迫している。正義とは単独の行動における単独の行為である。正義は存在しないが、そのような、闇の中での跳躍のような行為のみが正義たりうる。脱構築に終わりはないとはそういう意味である。ブランショのいう「中性的なもの」とは、このような決断の場面で中間項にとどまりえない受苦を表現しているのだ。決断が不可能なところにおいて決断するからこそ、そこに責任が生じるのだ。正義とは一個の狂気であり、暗闇の中で跳躍することである。だからこそ正義(脱構築)の脱構築不可能性を法の脱構築可能性から区別してやらなければならない。法は書かれたものであるからエクリチュールであり、いつでも脱構築可能なのである。そして脱構築されなければならない。正義(脱構築)は法を見直す原動力なのだ。

なぜ神は存在しないのか。あるいは、余は如何にしてサタニス徒となりし乎。


まず、「神が存在しないことは神の定義に矛盾する。なぜなら神とはもっとも実在的な存在者であって、定義より存在するからである。」というアンセルムスの神の存在論的証明は誤謬である。何度でも強調していいことだが、概念から存在は導けないからである。これでは証明ではなく、「三角形は3つの角を持つ」と言っているに等しいからだ。よって不可である。ところで神の存在を証明する方法は三種類しかない。存在論的証明(上記)、因果律証明(宇宙論的証明)、目的論的証明(別名自然神学的証明、すなわち素材を法則によって秩序付ける設計者というだけではなく素材そのものの創造者としての神)の3つである。後者の2つは最初の存在論的証明に帰着する。というのも、かりに「世界の必然的な原因としての神」もしくは「現にある世界の合目的性と秩序と美の起源としての神」という概念(たとえば「時間という条件を欠いた永遠」などの神学による定義)が推論されるにせよ、その必然的な存在者という概念からその存在者がまさしく存在することが導けると主張しているからである。そして概念から存在は導けない。後者の2つは神の存在論的証明を既に前提しているのである。あくまでスパゲッティモンスターと同じく神は蓋然的である。最高善としての神の存在は実践的理性の要請(倫理が意味を持つようにするため)であるに過ぎない。

 

 

では純粋理性の批判とはなにか。理性の合法的な要求を擁護し、根拠を欠いた越権を拒絶することだ。理性に「美」として与えられるのは、非現前の現前を不可能性との境界において呈示することまでである。どういうことか。そもそも理性は拒むことも答えることもできない問いを課せられている。その問いとはアンティノミーだ。アンティノミーとは経験的溯源の地平線である。つまり、世界は「現象の総括」(公園の広さはたとえば歩幅を基本単位としてつぎつぎに足しあわせて構想される。)であって空間と時間という形式とともに、経験的な溯源のその都度拓かれてくるので、ある地平線にたどり着くたびに新たな地平が所与になるということだ。限界の経験に接近すると経験の限界をいま超越しつつあるものが兆すということだ。経験を離れた世界は「存在しない」ということだ。つまりは無限(理性の理念)が経験の所与(感性の対象として与えられること)となることそれ自体がまさに矛盾である。世界は経験に「課せられている」のだ。世界の境界と経験の限界はそのつど覆いあう。経験の限界はそのたびごとに世界の限界である。この限界を「理念」という。中でも神にかかわる理念は「理想」という。時空は超越論的には主体の観念であり偶然(そうでなくてもよかったのでありその存在を自身以外の何者かに負っている。)であるから、現象の総括であるところの世界内のいっさいの存在者は経験的に条件付けられているから偶然的である。しかしながら、神は世界を超越しているので世界の外部に必然的な存在者、世界原因としてある。しかし世界外部の世界原因もそれが作動する時点では世界のうちに取り込まれ、偶然的なものとなる。ゆえに世界の内部に世界原因としての神は存在しない。神は現象ではなく必然的であり叡知的であり超感性的である。また現象の総括である世界には経験的溯源を超える外部は存在しない。

 

 

ということは、時空は経験的には実在的であり、超越論的には観念的なものである。これこそが合理論と経験論の調停であった。経験的にはいっさいの対象はかならず空間と時間のなかで経験される。つまり時空は超越論的には物自体に帰属しない。経験論的には物自体に帰属する。前者を超越論的観念性、後者を経験論的実在性と呼ぶ。だとすれば存在の条件が時空なら神をどうその条件から除外するか。カントはここに細心の注意を払った。時空が内外的な直観の条件に過ぎないことにしたのである。これにより神は世界を超越する。(初期のカントは、神は空間と時間の無限性としていたるところに現前すると考えている。つまり超越論的観念論はカントの転回を経て生まれたのだ。)カントにとって神は超越するが、その存在証明は不可能である。なぜなら、神は存在の形式を取らないからだ。つまり、両義的な意味で、はっきりと、「存在しない」のである。

 

 

猿には絶対に分からないハイデガーの基礎的存在論、あるいは存在と時間についてー存在の意味を求めてー

自分が存在していることは明白である。

なぜなら、デカルトのコギトがいう「私」とは、あの場合、私の存在のことだからである。(途中からデカルトは「私」という意味内容を「思考すること」から「思考するもの」に変えてしまっている。『省察』の133ページ、『何かわからぬ私のそのそれ』参照)

存在と時間は、存在論と人生論の話である。まず前者。存在に関わらないものなどあるだろうか。虚構すら非存在として存在に関わっている。

後者も実は同じである。人生論とは限界状況における存在論のことであるからだ。

ハイデガー哲学とはなにか。


端的に言っておこう。


「現存在が自己に出会うこと」

「目覚めること(開示)」

「存在の意味の解明」

「あるという言葉の意味の探求とあるという動作の意味の一致」

「結論を先取りして円環の道を行くこと」

「正解と手を切り、途上であること」

「自分が誰かをはっきりさせないこと(本当にこれでよかったのかと絶えず問いただされること)」

「隠れている根本を開示すること」


である。




問題がないとき、にもかかわらずそれを徹底的な破壊(存在しないほうがよいという答え)も視野に入れて問うこと(本来的かどうかを問う疑いの光)が人間の自由であり優位だ。逆にいうと、自由でなくなることはできない。だから、決定的な決断は自己を喪失しない限りできない。



ただし非本来的であってはいけないとは言っていない。すべての人に本来と非本来の2つの次元における自己があるが、「本来の自分を知りつつも非本来の自分に逃避している」もしくは「その区別すら知らないがために事実上問いから逃避している自分」というのとは別に、「その区別すら知らないがために事実上問いからたまたま逃避していない自分」もありうる。自己逃避をするなと言っているわけではなく、本来と非本来の極間でのアドホックな揺れ動きのなかでの自己の位置づけの問題である。



ではそもそも逃避とはなにか。生きている限り背負いこむはずのものを手放すこと。これを自己喪失といい、いつもその可能性がある。どこでか。大衆においてである。ダスマン(状況の中で泳いでいる、周囲と歩みが同じとき)、世界内存在においてである。しかし本来的な自己喪失もある。我を忘れて「他者」や理念のために尽くすときだ。後者の自己喪失があることはあまり知られていない。世間並みであることも熱中も自己喪失である。しかし自分と存在とのこのルーズな関係こそが人間が選択の自由に対してひらかれているということでもある。



人間は自由であるとは、俺はひとことも言ってない。選択の自由という姿をとって自分という場で起こる出来事に対して開かれているというだけである。なにかが起こりうるということ。そしてそれに対してオープンであるということ。これが人間に許された自由だ。選択しているのではなくあとになって選択したことがわかるのだ。「可能性にたいしてひらかれた形でしか生きていけない」という意味では不自由でもある。



ところで、ハイデガーにおいてしばしば問題になることだが、理解とはなにか。予期と検証の間の往復運動であると捉えている。アラビア語のようなものを読むときにアラビア語「として」とることである。我々は可能性に開かれた存在であるから、たえず先行的な理解を投錨してそれが対象のほうからまた投げ返される運動が理解である。この運動の止まった状態を逆に理解と呼ぶことがある。



現存在とは可能性のほうから自分を理解する、投げかけることで獲得された可能性を生きる存在者である。


ドイツ哲学の強みは言語に対する絶対的な信頼である。解釈学的な手続きもこの流れから来た。意味とは体験である。存在の意味は各人にひとつしかない。言葉の意味とは生活のなかで体験することだ。つまり、ハイデガーは言語と行為で別の側面として見ようとはしていないのである。


では眠りとはなにか。不在であると同時に現に存在すること。実は「ある」の意味を半ば知っている。自覚の手続きが問うこと。


世界に投げ込まれた存在としての自分の偶然性は自・存の2つの次元で現れる。自分でないことがあり得たこと、存在しないことがありえたこと、である。自存には他者と不在が隠れていて、この2つの否定生によってむしろ支えられている。自存は他と不在に支えられて可能になる。これが自存の持つ根本的な危うさであって、ここに気付くのが不安である。


世界はすべてのものの切っ先が自分の世界に向かっているような世界の在り方を呈する。その都度の状況的性格が世界の内容を決める。その世界の外には地としての「環境」がある。そして自己は存在に開かれているから、他者の世界と結びついた共同の世界もある。「私が」見るのが世界なのではなく「私にとって」「間接的に」現れるのが世界である。


安心にひたっているときですら、生きるとは気を遣うことである。客観的中立的な世界がまずあってそこに意味を与えていくのではない。世界は最初から便利であったり不便であったりするのだ。気遣いとはある存在がその存在なりの姿を保つようにすることである。ハイデガーの世界とは自分にとっての世界でありながら自分が中心となった世界ではない。なぜなら気遣いによって世界は引き寄せられているからだ。「一方が他方の中にある」のではなく「住まう」のである。「故郷」である。



空間になにかがあるという事態には2つの次元がある。存在的レベルと存在論的レベルだ。前者は使用条件による物の配置(テーブルは屋外なら椅子になってしまう)だが、後者は自己発見(あちらからこちらへの方向付け)である。



孤独になるのは「こちら」ではなく「あちら」が与えられないから。「こちら」は「あちら」を介してしか確認できない。つまり、世界内存在の世界は、はじめから不安定で依存的な構造なのだ。たとえば「いじめ」はこの構造をつかって成される反復的運動である。いじめはある空間を共有させることで現にそこにいるにもかかわらずそこに住み着くことができなくする。つまり「こちら」を排除するのではなく「こちら」を押しつけることによって成立するのだ。しかも「あちら」は実は見せかけであって本当は不在なため、「こちら」の裏面としての「あちら」しかないのである。被害者は空虚な「こちら」を押しつけられるのだが、押しつけてくる方の「あちら」も実は空虚なのである。空虚に耐え難い苦痛を感じるのが被害者の側だけであることを利用した暴力なのだ。存在の構造そのものが「いじめ」を可能にしている。



今述べたトピックたちからも明らかなように、存在の問いはいつも円環構造をとる。自分があらかじめ可能性として投げかけたことだけが可能性であり、「自分」とは「自分にとって」という間接性に過ぎない。唯一円環を抜け出す手がかりは、我々が不可避的に気分の受容体であることである。到来する可能性としてしか受け止めることができないものが死である。良心とは自分の存在の内部に完成の可能性が眠っているからである、良心の声を聞け。



時間とは到来するもの(マナー、身体、言語)がとる形式のことだ。存在の意味とはではなんだったのか。時間性のことである。我々は自分の存在の内に様々な時間を抱え込んでいる。そしてそれによって存在が到来するのを可能にしているのだ。語る者は現在にいても、語られる言語は時間の流れの中にある。身体には器官それぞれの辿った歴史がある。脳と呼吸器の歴史は異なる。服装には社会の辿った歴史が刻まれている。存在するとは時間性を抱え込むということだ。我々一人一人が途上に終わった『存在と時間』同様、存在論の途上にある。

猿でも分かる有徳の無神論、バールーフ=デ=スピノザ、あるいは、自由にものを考える無神論者は不敬虔か。ー我が良き友にして聡明なる物理学徒、山浦くんからの訴追を逃れてー

スピノザユダヤ人に追放されたユダヤ人である。無神論は白い目で見られた17世紀に、彼はいかなる宗派にも属することはなかった。オランダ人なのに、あのリベラルなオランダ共和国においてすら厄介者扱いされた。ポルトガル語が堪能で、学校ではヘブライ語を習い、ラテン語でものを書き、オランダ語で人々と会話し、フランス語とイタリア語が読めた。



オランダといえば、最強画家レンブラント、最強の国際法学者グロティウス、そして、フェルメール、と同い年なのがスピノザたんである。この国には、ジョンロックもいたし、ホイヘンスさんもいた。ピエールベールさんもいた。めっちゃいい国である。このちょーリベラルな国で、スピノザ無神論扱いされて禁書になった。スピノザにブチ切れたのは、リベラル陣営だったことは面白いね。(ファン=フェルト=ホイゼンさんとか左派カルテジアンやけど、スピノザのことめちゃめちゃ批判したからね。)


※以下の文章は、俺がいくつかの入門書を読んで、ある友人に送られた書簡という形式をとって、スピノザを紹介したものをここに載せたものである。この文字たちが、ネットの海の中を漂いながら、いつかきっと、誰かの笑顔になることを願う。


スピノザの書いた本の序文には、"バカな民衆が夢から覚めるとは思わないからこの本は別に民衆は読まなくていいです"って書いてある本もあるからそりゃブチ切れるよな。


スピノザってヤン=デ=ウィットさんっていうリベラル政治家がリンチにあって殺されたとき、家の前で『この上ない野蛮人どもめが!』って書いた大きな紙を貼り出そうとして、住んでた下宿の主人に、『さすがにそれはやばいよスピノザさん』ってとめられてるらしい。最高にかっこいい。あんたかっけぇよまじで。



あと、他にも本の中で、"『哲学は神学のはしため』とか馬鹿げたこと言ってるやつらはこの本を無視してください"とか書いてあるからね。まじ最高だからねスピノザ!神学と哲学を分離してんじゃねぇよって話です。(分離じゃなくて"両者は永遠に無関係です"ってんならええんやけどなぁ。まぁこれについては後述するわ。)


なぜかって?


だってさ、哲学と神学を分離したほうがいいよ派に言わせれば、悪魔ってのは比喩なんだろ?そんで、天使は、理性の及ばぬ神学的真理なんだろ?


え、なんで悪魔は比喩なのに天使は比喩じゃねぇの?



え、なんで天使が比喩で悪魔は理性の及ばないくらい正しいことじゃだめなの?


え、なんで、コーラをペプシにしたり、水の上を歩いたって話は、イエスのすごさを表すメタファーなのに、キリストが死んで3日後にゾンビになった話は、神学的真理なの?


メタファーとか言い出すなら、キリスト様が死んでから復活した話も別にメタファーかもしんねぇじゃん。それをメタファーっていうと聖書全体のストーリー展開に影響でるから譲れないとか舐めたこといいやがって。


それズルくね。


どっちが真理でどっちがメタファーかは、なんで神学に有利に決められんの。だったら復活だって神のすごさを示す隠喩かもしれないじゃん。 そうすると次のようなことを言うやつがでてくる。



『哲学と神学を分離したほうがいいよ派は、なんでもありな玉虫色のことばっかいってんじゃねーよバーカ!聖書なんか別にじゃあもうなくても別にええやないか!』



スピノザはこういうデカルトちっくな急進野郎から聖書を、そして、デカルトのボンサンス(いい具合にチューニングされた理性)を、守りたかったのである。



(山浦くんへ。というかさ、マジレスするとさ、"奇跡がたまに起きるからこそ神様がいることが分かるんだ"とか言うひとっていまだにたくさんいるけど、実際、神が自然法則を無視して、なんでも好き勝手にまさしく超自然現象を起こしうるとしたら、それって、逆にいうと、すべてのものが疑わしいってことやからな。だって自分の認識ですら神は歪められるんだから。だとしたら、そういう奇跡とか信じてるやつが最終的に行き着くのは無神論なんですよ。だから、カトリックにおいては神秘主義のほうがよっぽど危険思想なんです。あたりまえだけどね。)


ところで、


『田中くん、なんでも自由でいいのかな。』


とかいってくるチキン野郎には、スピノザは『いいにきまってんだろ!』と言うだろう。"神を人間ごときの想像力に置き換えるな!軽信を信仰に置き換えるな!"っていうのがスピノザのクッソ論理的なメッセージである。考える自由が敬虔を損ねるわけねぇだろ!


あのね、聖書ってのは基本的に理性に矛盾することがめっちゃ書いてあるわけじゃん。で、だけど、聖書は正しいっていう前提で読むわけじゃん。だからスピノザみてぇな天才が必要なわけ。ほんとキリスト教ってスピノザみてぇな天才の活躍に感謝すべきだよな。それなのにスピノザ無神論で禁書にするバカどものバカさってヤバくね。


じゃあどうするべきか。


まぁ要するに、まずは聖書が全部真理だってのをやめようぜってことです。文献学的にみりゃあ聖書全体には複数の著者がいることは分かってて、実際矛盾だらけなんだから、『分からないからすげぇんだ!』とかいうのをまずやめようぜってのがスピノザのアイデアです。


キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』を見て神を見ちゃうみてぇなやつにスピノザはブチ切れるってことです。


これからふたつのぶっ飛び聖書解釈を紹介しちゃいます!


モーセが『神は火である。』と言っているから、聖書に一字一句矛盾はねぇから、神は火なんだけど超自然的な火だから普通の火じゃねぇんだよ!とか言い出すのが、神学のやつら。代表はアルファカールさん。超自然的解釈ってやつです。


②同じ文、『神は火である。』を読んで、『聖書には矛盾があるようにみえるけどそれはメタファーだから、神は火なんじゃなくて、火っていうメタファーなんだよ』が哲学のやつら。理解するには哲学の理性でおkなやつら。代表はマイモニデスさん。急進カルテジアン解釈ってやつです。


じゃあスピノザはこの両者のぶっ飛びをどうやって調停したのか。ちなみに、俺が"ぶっ飛び"とか言って、汚い言葉を使うことで、スピノザのとっても繊細な哲学を汚い言葉で汚してるだろとかいう批判は俺にはあたらない。なぜなら、スピノザはこいつらふたつの立場を、『急進デカルト主義は理性をもって、超自然主義は理性なしをもって、どちらも狂っている。なんと滑稽な敬虔であろう。』って言ってるからだよ。


以下で見ていこう。


スピノザの主張はこうだ。銀河も地球も人間も石ころも神である。"祈りの神"だとか、"裁きの神"だとか、そういう人格神とかいうのはマジでよくわかんない。神とは自然のことである。神とは宇宙のことである。神、あるいは自然には目的もない。ただ自分自身の必然から存在し、一切を生み出しているだけだ。全ては必然であり、宇宙それ自体が神なんだから、神が異なった宇宙を作ることなんてありえない。なぜなら、神はひとりだからだ。だから最後の審判なんか絶対ないよってことです。なぜなら、審判もなにも、すべては必然だから。スピノザユダヤ人だけど、別にユダヤ人が神に選ばれてるわけでもない。どんな教義が真理と合致するかなんてどうでもいい。なぜなら、所詮は教義なんて人間の想像力の範疇にしかねぇし、別にそれはイスラームだろうが仏教だろうが関係ねぇ。これがスピノザの主張である。



スピノザの神は別に命令とかしねぇ。神あるいは自然についての知的認識が、われわれ自身のコナトゥスを最大化させ、自己肯定が至福に導くのである。



じゃあ、てことはさ、スピノザの神は人格神である聖書の神とは明らかに矛盾してるわけだが、じゃあどうやって聖書を見てたんであろうか。実はものすげぇシンプルで鋭いんだわ。てか、宗教をスピノザは肯定できんの?



スピノザ曰く、聖書とは服従と敬虔を教えているだけの矛盾だらけの書物である。目を覚ませという。聖書が全部正しいっていう両者①と②の前提がそもそも間違ってんだわ。聖書は思弁的真理なんかなんも知らないで、にもかかわらず、ちょっとだけ、何らかの正しいこといってるわけ。



聖書は神がどうやって世界において働くか、作用するかみたいなことを教えてる本じゃねぇんだから、そこにそれを読み込んでんじゃねぇよって話。


"解釈"とか"裏の意味"とか言ってんじゃねぇよ。聖書と理性の二者択一をせまってんじゃねぇよ。どちらも"そこそこ"正しいんすわ。


聖書ってのは言語なの。言語ってことは、意味なの。真理と意味は違うの。おk?ってことです。


つまりどういうことでしょうか。


『神は火である』ってのは、神は火であるっていう言葉なの。別にそういう文字が紙に書いてあるってだけ。だから矛盾じゃないじゃん。『山浦くんは田中である』っていう言表表現は意味としては通ってるだろ。疑わしいけどね。


なんか、聖書によると、ヨシュアってひとは太陽の運動を止めたことがあるんだけど、いや別にそういうストーリーは別に言語としては書けるだろうってことです。


いやべつにそんなこといったらスターウォーズだって嘘だからね。宇宙空間でビームの音とかしねぇから。でも、べつにそういうスターウォーズってあってよくねってことです。


なんでかって?


だって、スターウォーズ面白いから。



で、スピノザは、預言者を『預言者は、無知であり得たし、事実無知であった。』って言ってる。かっこよすぎ。


まぁ、ていうかさ、マジレスすると、預言者は無知だからすげぇわけよ。なんで預言者は預言できるのか言えたらそれ多分嘘じゃんだって。


理由も知らないのになんか知ってるからすげぇって話やろ。だから、預言者って無知なんすよ。それでええやん。啓示ってのは外部から来るんすわ。


まぁ要するに、


"ヨシュアが太陽止めれるけどその理由はしらねぇよ俺は人間だから派解釈"も間違ってるし、"ヨシュアは太陽止めれないけど、止められるくらいすごいってことだよ派解釈"も間違ってるってことです。



その理由を以下に示します。



だって、もし"超自然的解釈"が正しいとすると、じゃあそういうぶっ飛び解釈ができねぇやつの方が人口の99パーセントなのになんで預言者はそんな分かりにくいこというわけ。てか、なんでそんなぶっ飛びなこと大ベストセラーの一般書である聖書にかくわけ?もっと分かりやすく言えよ。


はい矛盾。


もし、"ぶっ飛び理性解釈"が正しいとしてもおかしいやろ。だって、なんで大ベストセラーの一般書であるバイブルにそんなぶっ飛びメタファー解釈ができる人しか読めねぇような回りくどい言い方するわけ?


はい矛盾。


スピノザは、"聖書は一般書"ですって言いたかったんだと思うんだよね。すっげぇ売れてる中公文庫みてぇなもんです。



くそ難しく言うと、スピノザは、真理条件ではなく主張可能性条件を問題にしてるってことです。


だから、聖書のメッセージってのは、スピノザによると、マジな話、一文に要約できる。



『あるところに、すごい、いい人がいて、神の方からやってきて、神のほうからいろいろ教えてくれて、それは要するに、神を愛して他人を自分のように愛してくださいってことでしたってことでした。』



はいこれ聖書↑。



これを言語学的にすげぇまわりくどいお話にしたのが聖書だってことです。ヨシュアが太陽の公転とか自転を止めれるとか、ペプシを頑張ればコーラにできるみてぇなマジ矛盾がたくさんあるのは、スターウォーズのプリクエルにおいて自分で頑張って作ったシースリーピーオーをアナキンスカイウォーカーが新たなる希望になったらすっかり忘れてるのと同じだし、新たなる希望においては"お母さんは優しいひとだった"とか言ってたプリンセスレイアが、なんかお母さんの子宮から飛び出した直後にお母さんであるパドメアミダラさん死んどるから、優しいかどうかなんてお前にはわかんねぇじゃねぇかっていうのと同じってことです。


ほんとかよwって思いましたか?



スピノザも神学政治論の下巻でこう言ってます。引用します。クッソ面白いのでここだけ原典読んでください。


『聖書そのものからわれわれは、何らの困難、何らの曖昧さもなしに、その主要教義を把握しうる。それはすなわち、神を何ものにも増して愛し、隣人を自己自身の如く愛するということ、これである。』



これである、どーん!


スピノザはこんなことも言ってます。


『たとえ聖書に矛盾が多くあっても、それを受け入れるものが虚偽であると知らなければかまわない。さもないと、その者は必然的に反逆者になってしまうだろうから。』



要するにどういうことか。



神が火であろうが、霊であろうが、目に見えない存在であろうが、そんなことは信仰とはなんの関わりもない。どんな風に神を解釈するかはそれぞれ独自の権利があっていい。ただ、信仰にも文法がある。日本語を喋るからには、なにをしゃべってもいい。スターウォーズを日本語吹き替えでやってもいい。でも、日本語の文法を守らなきゃいけない。もし日本語の文法を守らないと、自由にスターウォーズすらできない。だから、それと同じように、正義と愛を行う敬虔なひとである限り、そのひとは神に服従していることに定義上なっちゃってて、神は唯一であり、お手本であり、普遍的であるためにいたるところに偏在し、最強であり、最高であり、服従するひとは救われるしそうじゃないひとは地獄行きだし、地獄行きなひとも悔い改めれば天国チャンスがワンチャンあるっていう文法で聖書の内容を書かざるをえないし、読まざるをえないよねってこと。


ちなみに、スピノザはこの文法には従ってない。なぜなら、スピノザの神は、別にお手本でもなんでもねぇから。つまり、聖書の人格神を、信じてるってことは、そこから必然的にある文法を信じてるよねってことと同義ってことがスピノザは言いたかった。つまり、難しく言うとさ、スピノザは聖書を構造化してやったんだわ。それがなければ聖書ではなくなり、それがあるものは必ず聖書であるってことです。聖書がたとえ真でなくても正しい語り方ってやっぱりあるわけよ。どんだけスターウォーズが科学的に嘘っぱちじゃねぇかって言ったって、スターウォーズは物語として正しい語り方してるわけよ(とくに4作目はな。)。そこなんすよね。



もっと分かりやすくいうと、敬虔なひとはそれだけで敬虔ですってことです。ユダヤだろうが、イスラームだろうが、理性に従う哲学者だろうが、どういう理由に基づいていようとも、敬虔な行いをしたということは、敬虔ですってことです。その敬虔なことをした理由は多分この文法の枠内で語られるなんらかのストーリーによって記述されるんだけど、多分そのストーリーは構造の枠内だから何であろうと大した問題じゃなくて、別にスパゲッティモンスターのことが聖書に書いてあったとしても、別にそれはそれで文法の枠内でスパゲッティモンスターのことを書くんじゃないと聖書に書けないから、それでええんちゃうかってことです。スパゲッティモンスターも正義と愛の文脈でしか語れないってことです。別にスピノザがそうだったように、最大の自己肯定から生じるよいことをしたいという欲望(コナトゥス)によってよいことをした場合にも、隣人愛の教えにかなってる時点でその人は敬虔ってことです。てか、それが『恩寵』って言葉の真の意味です。


『敬虔か不敬虔かの基準は、その人が神の隣人愛命令に服従するか否かである。服従するなら敬虔である。』ってことです。


で、スピノザは、ついに"ちゃんと"哲学と神学を分離するわけ。


神学の目的は服従と敬虔です。哲学の目的は真理ですってな。哲学は自然から真理を導き、神学は言語と啓示と物語から敬虔を導くわけよ。どっちもすげぇ楽しそうだよなぁ、山浦くん。


まぁ、要するにさ、啓示宗教を嘲ったり、形而上学と神学を混同したりするいまのインテリよりずっとスピノザのほうが頭がいいことがわかる。


分離派は、分離しろっていうくらいだから、分離しなきゃいけないと思ってる。つまり、分離しなきゃ関係しちゃうと思ってる。だから間違ってるわけ。スピノザは哲学と神学の分離派じゃなくて、無関係派なんです。哲学と神学は関係しちゃいけないんじゃなくて、どんだけ関係しようと頑張っても、研究してる次元が違うから絶対に関係できないってことです。平行線なんです。


じゃあ、隣人愛による国家ってどんな国かっていうと、他者の権利をあたかも自分の権利のように守る国のことです。その必要十分条件ってなんでしょうか。聖書と同じように国家も構造化できるっしょ。


ところで、『よろしくお願いします』っていう挨拶あるけど、あれって倫理上、明らかに間違ってますよね。



みんな自分の利益の方が大事なのに、よろしくお願いしますって言ってくるやつってマジでなんなんでしょうか。



人間はみんな、利己主義です。認めましょう。みんな、まずは自分です。なぜなら、これが人間の本性であり、自然なんです。『よろしくお願いします』は背理であるとスピノザなら言うでしょう。


リヴァイアサンです。基本的にみんな自分のことしか考えてません。


だから、第三者による暴力装置が必要なんです。自然権の委譲といいます。でも、自然権の委譲は力の委譲を伴わなければ意味がない。ここまでならホッブズもやれた。



でも、ホッブズスピノザの違いは、社会契約を聖書に見出して、宙に浮かせないことである。ヘブライ人が出エジプトのときに、一回奴隷解放されとるやん。そんときに自然状態に戻ったことにして、そのあとユダヤの律法に自然権譲渡したことにしたわけよ。そしたら、聖書の文法つかって、社会契約説かけるやろ。民主共和政体を、神の国ってことにしてな。ヘブライの伝統である"不在の神"による、"本人たちも気づかない民主統治"である。民主統治ってのはさ、すぐ暴走すんだよ。なんでかっていうと、民主ってことは王様が民衆ってことやろ。で、民衆が王様になるとすぐ腐敗するわけ。世論の専制統治になってすぐマイノリティが舐められるわけ。


だから、どうすればいいかっていうと、王様が自分が王様であるってことに気づかなければいいわけ。


↑これがスピノザの天才的な判断です。


王様は不在の神であって、その言葉を伝えるのが預言者であるモーセなんだけど、でも、その神の言葉に従うことは、出エジプトのときみんなで契約によって決めてるわけ。これ、自覚なき社会契約説ですよ。共同幻想ですわ。これを、神政国家テオクラチアっていいます。




もっと分かりやすく言うと、"無自覚で徹底的な"聖教一致です。



"実質"民主政体といってもいい。実に巧妙である。あまりにもうまくいってしまって領土もどんどん増えたので、彼らは自分を選民だと勘違いしたのである。これがユダヤ人の選民思想の起源だとスピノザはいう。しかしながら、ユダヤ人の成功の根拠は、神に選ばれていることではなく、無知の上に循環する最強の政体にあったのだ。



だからまるで選ばれし民族に見えてしまった。モーセは無知で良心しかないし、外部から啓示を受けただけだからこそ民衆の理性による詮索をまぬがれたし、また、だからこそ、詐欺師として殺されたりしなかったし、また逆に、民衆は無知であるから、"ヘブライに伝統の不在の神"があたかもいるかのようにおそれているからこそ、モーセの預言には神の息吹という拘束力が吹き込まれていて、法律が社会を円滑にしたのである。(法律なんか守らなくていいよとかいうおせっかいなイエス様とかいう新たな預言者が現れるまではね。まぁ、イエスだって聖書の敬虔文法の枠内でしかストーリーを原理的には語れないから、スピノザは別にイエスもまぁ普通に肯定するけどね。まぁでも、神の受肉とか復活は、嘘っぱちだけどな。)


社会契約説をスピノザは聖書語で書き直したってことです。社会契約説を聖書語で書き直すとなにがすごいかっていうと、人間は本性上、宗教的な生物なんだけど、その本性を統治構造に組み込むことで社会が最強になるからだよ。しかも、めっちゃリベラルですげぇ自由な国になるわけ。だってほんとは神なんかいないんだもん。



社会契約を服従文法をつかって、聖書にしちまえば、バカは文法にマインドセットをイジられとるから、服従するやろってことです。サピアウォーフ仮説みてぇなもんで、やってることは伊藤計劃の『虐殺器官』って小説と同じですけど、あの作家のやり方より100倍かっこいいです。


どういうことかっていうと、



聖書から人間を服従させる文法を構造化してから取り出して、その文法を使って今度は社会契約説を書いてるわけ。これをひとりでやった男がバールーフ=デ=スピノザ


つまりさ、逆に言うと、民主政体とかいうとるけど、そんなもん多かれ少なかれ神学的じゃねってことですわ。


だって、社会契約説とか実際フィクションじゃん。で、フィクションへの服従は神学の分野だっておれさっき言ったやろ。だからさ、神学舐めてんじゃねぇぞってことです。


18世紀に『三大詐欺師』っていう本がヨーロッパにはあって、その詐欺師とはモーセ、キリスト、ムハンマドです。すげぇ有名な本で、聖書は支配の道具なんだっていうアナーキーなアングラ本です。


じゃあ、でも、え、なんで詐欺じゃだめなの?


え、別に詐欺でええやん。だいたいの社会とか、詐欺なんだから。



んなこと言ったら、小説だって別に詐欺だろ。詐欺だって面白けりゃ、俺は読むってことです。




ところで、先ほどと同じように、『神の国』の文法も全部書き出せますよね。



神の国の国民であるからには、論理的帰結として、以下の文法に従っているということです。まず、最高権力に従っているのでなければ正しいひとじゃねぇから捕まるってこと。平和のために活動してるならそれは聖書の次元なら隣人愛にあたるから敬虔ってことになるってこと。不敬虔ってのは最高権力にそむくってこと。それは統治権を奪おうとするってことですってこと。


神の国に住んでるひとってのは、このルールに従わざるをえないんすよ。だって必要条件だから。ルールは決まってる。ルールの内容はこの文法でかくからどうでもいい。『服従の理由ではなく、服従自体が臣民を作り出す』っていうのはそういう意味です。社会の構成員が同じ意見である必要なんかないんですわ。みんなが同じものを恐れてればね。例えば、死とか、暴力とかね。



てことはさぁ、"神の国の再興"とかいまだに言ってるのはスピノザ的にはナンセンスなんすわ。なんでかっていうと、ここはすでに神の国だから。



てことはですよ。


スピノザに対して不敬虔だとか無神論だとか言えないはずなんだよね。だって、敬虔か不敬虔かを決めるのはオランダ共和国がその代理を勤めてる(本当は不在でフィクションかもしれない)神であって、実質的にはオランダ共和国が決めれるわけ。だから、いまさら聖書とかいう矛盾だらけの本持ってきてそれに合致しねぇからエチカは不敬虔だっていうのはオランダ共和国の統治権の侵害だから、むしろ不敬虔なのはお前の方だってことです。俺を不敬虔だっていうためにいまさら聖書なんか持ち出してきてんじゃねぇよ。



ということで、タイトル『自由にものを考える無神論者は不敬虔か。』に対して、答えを書いておきますね。


自由にものを考える無神論者が不敬虔なわけがねぇだろボケが!!!!



さーて、まとめましょう。



俺は以下のことが言いたい。


宗教は背理である。ゆえに真理として信じる必要はまったくない。しかし、肯定する必要がある。なぜかというと、もし宗教を真理として信じてしまうと、哲学や科学によってある日突然攻撃されるんじゃないかとビクビクして夜も眠れないし、実際、宗教を信じてると、宗教を肯定できないからである。だって、科学や哲学に『お前ら、ペプシがコーラになると思ってるなんてバカじゃねぇの?』って攻撃される可能性がいつもお前にはつきまとうんだが、その理由はお前が宗教を真理と同一視してることが原因なんだもん。だとすると、本当のところで、その不安のタネである宗教をお前は肯定することができてねぇんだわ。だからだよ。



だから以下のことを忘れないでほしい。



思想言論の自由は敬虔と共和国の平和を損なうことなしに許容されるのみならず、この思想言論の自由が除去されれば、平和と敬虔さも同時に除去されます。なぜなら思想言論の自由は敬虔であること、平和であることのための必要十分条件だからです。


なぜなら、信仰が敬虔かどうかを決めるのは信仰内容ではなくその行為の正しさによるのであり、その正しさを決めるのは服従の大切さを説く聖書ではなく統治権力である。しかも羽根のない人間に空を飛ばしたり、嫌いなものを好きにさせたりすることは、(それは人間の本性なので)権力には不可能なので、統治権力といえども構成員の本性を変えることは原理的にできないし、自然権を委譲することは考える自由を放棄することではないってことです。なぜなら人間は本性上考える生き物だからです。ゆえに、人間は行為の上で法に従っている限り、何を言っても書いても考えてもいいのである。逆に、この社会契約を損なうような言動は大逆罪であり、たとえば聖書というベストセラー本の権威でもって言論を封殺することなどあってはならない。つまり、法さえ守っていれば自主規制をする必要など、なにもないのである。敬虔と宗教は隣人愛と公正という行為の中にあればよいのである。法の支配もただ行為の中にあればよいのである。いかなる啓示宗教も真理を教えない。信仰なんか別に無知でもええやん。だって、神の国の秘訣は"モーセの無知"にあるんだから。それゆえにこそ、真理を知る者は宗教と信仰を肯定する。


行為が、どうかである。

スパゲッティモンスターへの服従と愛のために、隣人を救った男がいたとすれば、彼は素晴らしい。


悪魔への服従と愛のために、どれだけ遠くにいても盟友を決して忘れなかったあるサタニストがいたとすれば、彼は友と呼ぶに値する。



以上

猿でもわかるモナド論−失われた山浦くんを求めて−あるいはライプニッツのモナドロジーがおとぎばなしだと思ってる"無関心な"人々へ


モナドとはなにか。細胞のことだ。そう言いたくなる俺は、そう答えてからハッとする。モナドには窓がないじゃないか、と。そして前言を撤回する。モナドとはなにか。<自分>のことだ。私は合理論者である。ということは、つまり、個別的なものではなくて、一般的で抽象的なものから始めるひとのことである。しかし、私はそのような考え方が大嫌いである。なぜ人間は絶えず自己保存をしようとすることができるのだろうか。運動はだいたい始まりと終わりがある。しかし、絶えず続けられる運動というのは少ない。しかし自己保存とはそういう運動である。きっと目標が遠ければいいのだ。でも、ひとは平和主義とかそういう情報がとことん削ぎ落とされた一般的なことがら、抽象的なことのためには努力できない。遠いからだ。では、なぜそんなことができるのだろう。それは、守る、保存する対象としての自分が、最も明らかであると同時に、最も隠れているからではないか。これがモナドである。最も分からないものなのに、最も分かっているような妄想を与え続ける無人称のシステム、それが<自分>である。お前は自分のことは自分で一番分かるといいつつ、絶対によく分かってない。デカルトも自分のことがよく分かってなかった。だから、どうしたか。謎を謎のまま受けいれろと言った。一番不確実なことを真理として設定してやれば、それについては前提してるから前提を疑わなくて済むだろ。それが『我思うゆえに我あり』だよ。そう言っておけば、謎を謎のままにしておけるからね。すべてを疑ってみても、疑っているという<自分>の存在は疑い得ないくらい<自分>って意味わかんないよね。ってことです。だって、なぜそれ以上疑い得ないのか、彼は答えなくて済んだろ。


じゃあさっそく、それもうちょい疑おうぜ。


デカルトの言うことがもし正しいとしたら、眠っていたり気絶してるときはデカルト消えるのか?って話です。


消えません。なぜなら、微小表象が生じてるから。微小表象とはなにか。無意識のことです。無意識ってなにか。意識されてない部分の意識のことです。では意識とはなにか。表象のことです。表象とはなにか。外的事物の光を遮断して、一部を透過させ、一部をスクリーンに焼き付けることです。作用と反作用だけの世界で本当は無理なはずの知覚をすることです。要するに世界から自分が注目する部分だけをスクリーンに焼き付けることです。光でしかないリンゴを赤くすることです。だとすると、スクリーンにうつる映画だってカメラだって表象してることになる。光でしかない世界の光を引き算してるんだ。これを、ベルクソンなら減算モデルと言うが、ライプニッツは天才なのでそんな難しい言葉を使わない。


だとすると、精神とは表象と欲求のことなんだから、物体も精神的なんだろうか。


そうである。


ライプニッツは、物体を眠れるモナドとして見ている。いや、そもそも、人間だって精神はないし、生体は物体から生まれたのではなかったか。だとすると、物体とか生体という区別がそもそもよく分からないのである。世界には眠っているモナドと眠っていないモナドがあるのだ。だとすると、物体か生体かとか、肉体か精神かとか、そういう問いの立て方自体が間違っていたことにもう気づいたはずだ。肉体はあたかも精神がないかのように作用し、精神はあたかも肉体がないかのように作用し、しかも両方が両方に作用を及ぼしあっているように作用する。それがなぜかはもう考えなくてよくなった。なぜなら、世界の構成要素はモナドだからである。



世界中にモナドが満ちている。しかしそれらには窓がない。決して混じり合うことがなくそれぞれが独立なのだ。孤独である。しかし共時的に調和する。


しかしそうだろうか。


モナドの発想とその調和の発想の間には少しジャンプがあるように思える。前者はおそらく無機物にも生気を見出そうとする発想から生まれていて、後者は多分その逆だからだ。モナドはリアルなのに、神はリアルじゃねぇ。


ところで、『なぜここにいるのか答えろ』という問いを、誰何(スイカ)の問いという。ウォーターメロンの問いである。スイカの問いを発すると、常に、夢の中にいるのか、現実の中にいるのかは分かる。なぜでしょうか。それは、『理由のないものは現実の世界にはない』からです。これをライプニッツの理由律といいます。


だとすると、これに答えられないときというのは、夢を見ているときなのである。そして、大半の人はこの質問に答えられない。


ところで、なぜ理由律は絶対なの?と疑問に思った人は以下のことを考えましょう。歩くとき右足から出すか、左足から出すかを死ぬ気で考えてみてください。ほとんど条件は同じです。が、ほんの少しだけ条件が違うでしょ。だからあなたは動けました。しかし、さて、その条件がまったく同じだとしてみましょう。すると、あなたは死ぬ気でと言ったので、死ぬ気で考えます。しかし、どちらからだしても絶対に同じなので、選べません。その結果、死ぬ気で考えたのであなたは死にます。しかし実際には死んでません。


つまり、右足か左足かの選択にも必ず理由があるんです。理由がもしないとすると、まったく同じ2つのものがあることになります。まったく同じものが2つあるとすると、ひとつを選ぶ理由がなくなっちゃうのです。葉脈がまったく同じパターンの2つの葉はありませんが、なぜかというと、どちらかひとつを選ぶための理由がないからです。まったく同じパターンの葉脈を持った2つの葉がある世界なら、きっとそれは夢です。


これがライプニッツの不可識別者同一の原理です。不可識別なら同一でしょ。でも、同一のものなんてないでしょ。だから2つのものの間には必ず内的な差異があるでしょ。


これがライプニッツの不可識別者同一の原理です。いや、もっと分かりにくく言うと、『外的に異なるとき、いつも内的に異なる』ということです。位置以外にすべてが等しい2つの葉っぱがあるとしたら、その葉っぱがどの枝のどこにつくのか、理由がなくなってしまうわけです。


分かりやすく言うと、ディファレンスがないものはないって意味です。ディファレンスがないものっていうのは、アンディファレンスなもののことです。アンディファレンスなものというのは、無関心な人のことです。つまり、無関心であっていいわけねぇだろってことです。差異を見出せバカどもが!!!



というのも、数学の世界(現実じゃねぇ)でなら、数においてのみ異なるものって存在できるだろ。てか、数学の世界ではそういう事物を前提しないと、足したり引いたりできないですよね。


外的に異なるというのはどういうことかというと、時間空間においてのみ異なるってことです。位置が変わると位置以外も変わるってことです。太陽に向かって地球を少し動かしたら、地球の温度は上がりますよねってことです。なぜなら、事物は関係の中にあるからです。位置が変わるというのはどういうことかというと、原点が動かないということです。もし点Pが動きつつ位置が変わらないとしたら、原点と点Pが同時に同じ方向に動いてないといけません。ということはつまり、動くということは"ある点からみたある点の関係が変化する"ということです。


ということは、私の内面には固有性がありますが、その固有性は常に外部の位置の変化と連動していることになります。留学して性格が変わるというのはそういうことです。場所が変わるから内面が変化し、内面が変化したということは、そいつの場所が変わったということです。つまり、時間と場所の違う2つの同じものはないってことです。つまり、逆説的に言おう。モナドは無窓性を徹底することで外部に開かれるのだ


外部の差異はモナドの内部で表象されるんです。無差別のモナドは存在しないから、モナドは常に固有性がある。つまり、お前はかけがえのないモナドなんだわ。同じモナドは一つとして存在しねぇ。しかし、その差異は微小表象かもしれない。無意識に表象されてるから気づけない。同じものに見えてしまう。いやまて、そもそも、モナドには窓がないんだから、外的変化が内部にどうやって伝わってんだよ。よって、もう少し、お前の、山浦くんのかけがえのなさを探さなきゃいけない。俺についてこい。


この問題はモナドには窓がないを維持したままで解決できる。

もしヨーロッパにいる俺が死んだとき、山浦くんは瞬間的にそのことを知るということだ。なぜか。なぜなら、ライプニッツ的に言えば、世界には真と偽の命題しかないからだ。つまり、俺が死んだという命題は、俺が死んだ瞬間に偽から真になる。知ることで変化が生じるのではない。認識しようがすまいが、世界の出来事はモナドの中に表現されると言っているのだ。人間は宇宙の一部であり、その鏡である。宇宙の端っこの闇の中にいたるまで、微小表象として我々は反映しているのだ。つまり、世界とは暗い隅々まで私である。


しかしこうも言えるはずだ。ヨーロッパの俺が死んだとしても、それは俺という外的規定による関係(名前)が変化しただけだと。つまり俺が死んでも僕が死んでないということもありうるのではないか。つまり、真理値が変化してもそれは言語世界の問題であって、実は変化が起きてないということもありうるのではないかと。これは典型的な実在論の掘り崩しである。よくある手である。しかし天才ライプニッツはそうは考えない。それをうまくかわす。どうやるのか。名前とその名指される対象には関係がわずかながらあるのだ。というのも、先ほど述べたように同じものは2つと存在せず、外的規定は必ず内部にその基礎を持つ。つまり、俺と僕は名前が違うだけ、ではないのだ。俺が死んだということは、俺にしかない内部に固有の何かが死んだのであって名前を変えて僕なら生きてるよとはならない。俺と僕は名前が違うだけではないのだ。名指される何かが内部で持つ違いを反映しているのである。もっと難しく言うと、真なる命題において述語の概念は主語の概念に含まれているということである。『山浦は田中の左にいる』という命題が真のとき、もし左にいなくなったらもはや山浦ではなくなってしまうということである。つまり、『山浦』は、言語学的、恣意的な偶然ではないのだ。つまり、俺という代名詞と田中くんが結びつくにはなんらかの理由があるわけ。もちろん僕でもよかったわけよ。理由があればね。つまり、その意味では偶然なのね。でも、選ばれてしまってからは必然なわけ。【選ばれるまでは偶然、選ばれてからは必然】、これについてはライプニッツの自由論で重要になるから忘れないでね山浦くん。時空規定は主語の概念に組み込まれている。だから、繰り返しになるが、外的規定だけが違って、それ以外は同じものは絶対にありえない。レプリカントは現れない。アンドロイドは電気羊の夢を見ないのである。


では、いままでの話を総合すると、有限のモナドの中に無限の宇宙が含まれるということになるが、それでいいのだろうか。無限を有限が含むということはどうやってなされるのか。襞を使うのである。被造物であるモナドの中には展開されていない無数の襞が含まれている。その襞が内側にさらに襞を含むのだ。襞の中の襞の中の襞の中の襞の中の襞というようにモナドの中は小腸のようになっている。では無限をどう経験するか。波の音のようにである。海岸を歩いている時、我々は波の音を別々に個別に聞いていながら、ザーッという音に合成する。このようなやり方で、渾然とした無限は減算されてスクリーンに映され、あとは微小表象として意識のうしろで聞かれるのである。こういうのを強度的っていう。ある食べ物が塩辛いことは瞬時に分かるが、塩辛さがなにかは分からない。なぜなら、塩辛さを構成している契機は強度的であって、ひとつひとつを説明できないからだ。宇宙が存在していることははっきりとわかるのに、なにが存在しているかを表象できない。これを"渾然"という。いま言ったことをものすごく難しくいうと、ライプニッツは万物同気として宇宙は微小表象という暗い領野として与えられ、それがモナドの地平をなしているということだ。渾然とした地平があるから、判然とした輪郭が立ち現れるのである。この輪郭を統覚とか自覚という。つまり、渾然とした宇宙の中の、中心で光の濃度の高い中心部分、それが<自分>である。


ということは、唯一性には二種類あるという必要がある。ひとつめの唯一性は、不可識別者同一の原理から導かれる唯一性である。外的規定だけが異なり、内部は同じものは2つ存在しないという唯一性だ。もうひとつの唯一性は、しかしだとすると、ダンゴムシの唯一性と私の唯一性は同じ唯一性だろうか。ダンゴムシも無数のモナドが出たり入ったりしているし、<自分>もそうであり、時空間規定が異なる以上、どちらも唯一のものである。しかし、ダンゴムシには統覚がない。


もうひとつの唯一性とはなにか。それは、常に新しい自分に変化し続ける限り同じ自分であるということである。<ミーハー唯一性>と呼ぼう。無数に存在するそうなりえたかもしれない<バリアント自分>との比較において現実の自分の方がアクチュアリゼされる。そのときの問い『なぜ私は世界にひとりしかいないのか』を発することによって生じる、かけがえのなさを問うことのかけがえのなさである。事実のレベルでもうすでに偶然であること(他でもありえたこと)、唯一であること(他に外的規定だけが違う同じものがないこと)、同一であること(これを自分であると同定すること)がすでに備わっている。なぜなら、モナドとはそういうものだからである。しかしながら、それだけじゃない。そこからさらに人間は、『私とはなにか』という問いを発する。これは、問いではない。なぞなぞである。つまり、答えなど同じ次元にはないのだ。同じ次元にはないから、新たな次元から答えとなるものを見つけてきて新たな事実を引き起こしていくことである。たとえば、『上は洪水、下は大火事、なーんだ』というなぞなぞは、『小さい方からかずえて100番目の素数はなにか』という問いとはまったく構造が違うのである。後者は答えのあるつまらないものだが、つまり、答えがあるのだから問う必要すらなかったという意味でそもそも問いにすらなっていないのだが、前者は本当の意味での問いである。これには『お風呂』というふうに答えればいいじゃないかという人がいるかもしれないが、それは違う。なぜなら、お風呂は上が洪水でもなければ、下が大火事でもないからだ。お風呂について、ぼんやりとした知識は、それこそライプニッツのいうように、"渾然と"与えられている。しかし、それが統覚によって自覚されていない。そこで、このなぞなぞは日常的な語り方の次元に答えはないことを気づかせて、『お風呂とはいかなるものか』を自覚させているのだ。つまり、『上は洪水、下は大火事、なーんだ』

というなぞなぞは、『お風呂とはなにか』という真の問いなのである。つまり、『私とは何か』というなぞなぞを、答えをすでに渾然と知っているのにもかかわらず私が私に対して発するというときに起こっているのは、問いを問う過程とその問いが成立する条件を整備する営みである。問いへの答えが泣き叫びであろうと、それは初期条件としてフィードバックされて事実と化し、また問いの条件となる。この問い返しは反復ではない。この反復ではない反復の中の差異が、お前だ。