〜山浦との通電を通しての気付き〜

少し大切なことを書いておこうと思う。一身上の都合で、久々に日本語を使いたくなっているからだ。だから、なるべく口語体に近い言葉で分かりやすく書きたい。俺は実際、ごく親しい友人にしかこのフェイズで書かない。いわゆる俺のマジレスというやつである。ただ、俺のマジレスは「表現」であり、「表現」とはすべからく、他人の頭の中にあるもの(まさしく異物)を叩きつけられる行為である。ゆえに表現とはスキャンダラスで不謹慎で失礼な迷惑行為である。逆に言えば私がマジレスをしていないときというのは大体世の中の誰でも考えるようなことを考えたフリをした場合か、有名な人の考えの受け売りであるから、情報的価値はあっても表現としてはゴミである。


(しかし、"所詮は日本語で書くのであるからやっぱりマジレスだとしても日本語によるディスクール蓄積の受け売りではないか"という批判もあろうが、その点については以下の2点において反論したい。)


⑴まず、日本語は非常に微細なので、たまに物質性さえ帯びる。粘着質の言語をクチャクチャと口に含みつつ、ペッと吐き出すその瞬間をイメージして欲しい。そこにはきっとスクリーンを通しても消せない汚らしい唾液の匂いがこびりついていることだろう。砲丸投げの選手ように砲丸をベタベタと手のひらで確かめながら言葉を投げよと言ったのはかの有名な小林秀雄先生であるが、私はまさにそういうジメジメした粘着性を言語に持たせるのが得意な人であるから安心してほしい。


⑵俺がこれから批判するのはまさに貴様のようなやつだ!



よって以下の文章は不快である。


俺はソーシャルネットワーキングサービス(SNS)が嫌いである。というのも、殊、今の日本人がこれらのサービスを使うと、他人の意見を相対化できる俺は頭が良さげだろ的な使われ方ばっかりだからだ。(これについては後で深くdisるから待っとけ。)


もちろん、たくさんの情報をネットワークを使って摂取し、自分の意見を国際政治とやらの俎上に乗せるため、世界に向けて発信することは大切である。


だから、英語は大切だし、そのための前提となる日本語も大切である。英語が使えると、①「世界に向けて発信する」という日本語文がもつ自己矛盾がひとつ解消されるということだけでなく、②英語の次に話者が多い言語たちをまずは粗末な英語にしてみることもできるほど汎用性の高いクソ言語である英語で、文章の構造だけをまずは抜き取って考えることができるということ、という2つのメリットがある。



つまり、機微は分からずとも理解はできるという状態にデコードしたいなら英語ほど便利な言語はない。


「所詮はその程度のことだとも言えるのか」と色々な大切なことを単純化して看過することができる。例えばレイシストやドアホを相手にしていて、即刻黙らせなければいけないとき、英語は貴重なツールとなるだろう。


歌を唄いたいとき、とにかく誰かを元気にさせたいとき、破天荒なジョークを言ってとにかくすべてが「うわー」ってなっている可哀想な精神状態のとき、英語は貴重なツールとなるだろう。要するにそういうことである。



英語を素晴らしい言語だと思ってTOEICの点数のために目が充血しているやつは頭がどうかしているから放っておけばいいとして、なにかをデコード(要は何が言いたいの?という失礼な質問を)したいときにはとりあえず英語が便利だ。本当に素晴らしい言語である。


さて、というわけで、SNSFacebook上でdisろうと思うんだが、ここでdisろうとしているのは、あくまでも日本における最近のくだらんタコツボ的タグ付け大好きクラスターどものキモさについてである。英語で頑張っている人たちはおそらく上記の利点をよく理解して喫緊の行動(まぁお前らが好きなACTIONとでも言っておいてやろうか?)を取りたいのだろうし、それらはとても有効に働いている。また、早急にSNSから離脱を始めたエリートどもは、悔しいがお前らの判断は英断だと言わざるを得ない(クソエリートどもめが!俺はお前らが嫌いだ!)。それから、情報収集という名の傷の舐めあいであるTwitter界隈、それから自意識のマウントを取りたいオサレSNS界隈、私はもはやなんでも相対化しつつ"実は承認されたい"やつらの幻想にしか見えぬ。ツンデレもいい加減にしたまえ。(承認欲求より美味しいワインの快楽の方が濃度が高いぞ。)


【はっきり言っておくが、メタ視点に立てると頭がいいわけではないし、ひねくれてるとかっこいいわけではない。】


これは驚くべきことだった。私はそれをこの歳まで知らなかったし、これに気づいたときにはかなりビビった。頭が良くみえることと、頭がいいことはまったく別のことであったのである。いい人に見えること(ポリコレ)と、いい人であることはまったく別のことであったのである。そしてこれについては誰も教えてくれず、自分で気付くしかなかった。誰も教えてくれなかったのは、この違いを伝えることは構造的に不可能なはずだからだ。周りの大人たちのせいではない。


タイムラインに時系列に並べられた投稿を見たとき、誰かの心の叫びは、その下にある投稿で常に相対化できることを誰もが瞬時に知るだろう。


文字の価値は極限までバカにされ、誰かが必死で刻みつけた文字は限りなき等価性の海へと流れていく。海の底に沈んだ投稿は、再び取り上げられる。どこに取り上げられるかって?血祭りのときの生け贄になるためだよ。俺の言ってる意味が分かるだろ?


まして文学部の学生諸君なんか相対化の権化のような学生たちである。彼らは、どんなことも相対化できることを確信しているし、それに慣れているから、彼らのツイートは読んでいて面白いのだ。誰かの心の叫びが、どんどん血祭りにあげられていく。なんたるエンターテイメントか。楽しいではないか。そう、楽しいのである。


しかしここで問うてみたいのは、お前らが死ぬほど大事にしている属性の内容である。


西高校・美人・金持ち・貧乏・職業・都会・田舎・年齢・親・好きな音楽のジャンル、これらの組み合わせでお前らはなんとか自分の社会におけるポジションを死守しようとしているし、その一つしかない組み合わせを「アイデンティティ」などと呼び(この言葉の使い方を間違っている)、さらには自分の好きなものをある程度尊重する限りで、他人の好きなものも尊重してやるよ的な相対化を常にしている。みんな違ってみんな本当によかったな。



まさしくお前らを構成しているのは属性であって、その属性によって人の脳の中身や家庭環境までだいたい想像しては、悦に浸る。


誰かの属性の「劣化」を速報にするのは楽しいだろ?


結局はSNSのタグ検索を通して分かるのはこれらの属性であり、世界をどんどん流していくにはやはりこれらの①嘘っぱち独自性と、②相対性、この矛盾するかに見える2つを同時に与えてくれるSNSが便利なのだ。この2つの「矛盾しながらの同一」、すなわち【相対的独自性】という従来あり得なかったワードこそが、SNSという発明の核心である。では、核心とはどういう意味かというと、SNSとはなにかと聞かれたら、「相対的な独自性だよバーカ」と答えるのがおそらく一番的を得た答えだという意味だ。


【独自性の意味が、「自分の匂いがするということ」から、「誰とも違うこと」に変わったんだ。新しい組み合わせのことをオリジナルと呼ぶようになったんだ。この微妙な変化に気付けるか?】



では、人間は玉ねぎの皮みたいになってて剥がしていくとなんにもなくなるってことだろうか。俺は絶対にそんなことはないと信じるものである。どんどんお前の玉ねぎの皮を剥いてみるといい。それには留学が一番だ。ヨーロッパに来ると、国籍も出身高校も、すべてが実際に試される。別にお前が持ってる属性は、すごいのかもしれないしすごくないのかもしれないが、それに頼らないことができる時間と空間は割と限られている。


いわばデカルトの方法的懐疑を実地でやってみるということが留学の本質である。


ちなみに私が持っている属性というのはだいたいが真っ赤な嘘であるし、そもそもポンコツであるし、なんの役にも立たないのでこちらに来てから信用したことは一度もない。そもそも私は日本ですら親しい友人にしか本性を見せたことはない。彼らは信頼に値する仲間である。


裸になってみると、自分は自分の頭で考えることが割とできるなということが分かる。これは日本の大学に通っていると、最も苦手になる技能のうちの一つだ。まして文系の人間が最も苦手とすることであり、だから俺は文系の人間は基本的に信用してこなかった。彼らは読んだ本すら自分の属性にしてしまうからだ。読書家なんてまったく頭良くねぇぞってことをここでよく言っておきたい。


【割とマジレスすると、読書してるやつはサプリメント取ってるやつとあんま変わらないと思ってるくらいが丁度いい。】


さて、ここから私は論陣を180度ひるがえしてみる。


とはいいつつも、属性というのはなかなか素晴らしい。というのも、もしその人の一部じゃなかったら、そもそもそんな仮面を付けないからだ。つまり、ヒップホップ好きを公言してるやつをヒップホッパーと言ってしまうのはある面で正しいのである。ほんとにヒップホップが好きなんだろうから。


では、弁証法的にまとめてみよう。


つまり、すべての問題はこの「属性」という言葉から生じていることが分かる。誰かの特徴のひとつひとつを属性として列挙してみることというのは、それ自体がなにかを分類してクラスター化したいという欲望なのだ。


例えば、ここにフランス留学中の大学生がいるとして、そいつが非常に幼児退行的なところがあるとすると、それはそいつが幼児退行をしているのではなく、そいつは割とガキなのである。あまりにその豹変が激しいとしても、多重人格ではないのだ。その人の属性はその人の一部でもある。だから多重人格のひとは多重人格ではない。みんなその人である。こういう多重人格のような自己倒錯病というのは、この点を見えにくくする点で非常に恐ろしい。



さて、結論に入ろう。


「属性」とか「仮面」とか「人材」とか「劣化」とか言うな。


お前らSNSを未だにやっている理由を俺はよく知っている。それは、どんなテロも、どんな差別も、自分は当事者にならずに済むからだろ。俺の知り合いの東大生に面倒くさいからという理由であらゆる恋愛をしないやつがいるが、俺に言わせればそいつは頭が悪い。


永遠の冷やかしで居られる。でもそれは実は鬱製造マシーンでもあるんだ。ひねくれは、傷つかないようにするための防衛反応だ。 そして、そのために属性をたくさん身にまとう。しかしそれらの現実との乖離が激しくなった時、おまえは絶対に病むだろう。SNSをやっているひとにメンヘラが多い理由はこの投稿によって解明された。

精神分析とはなにか、あるいは<星座>とはなにかー山浦を精神分析するために調べたことー

デリダが言いたかったのは、「良いことがあると必ず裏には悪いことがある」ということではまったくない。そればっかり書いてある入門書っていうのはまじでなんなの。「良いことをしようと思うと工夫がいる」ということである。



無意識とはどういう理論か。『しょうがない、大丈夫』と言っていても、それでも壊れてしまう人がいるということだ。というか、みんなそうである。人間はそうやって強がってはいるが無意識がダメージを受けていてマグマのように蓄積されていく。頭のいい理屈屋は無意識に無自覚なことが多い。例えば、『君の言ってることは理性では分かる。しかし、それでも分からないひとがいるってことはどうすんの?』っていう観点を指摘されるとビビる。この観点が抜けている人が多い。例えば、サルトルの『無意識など存在しない』という発言は、『サルトルは無意識をめっちゃ抑圧している』という意味になる。無意識についての学問は、イデオロギーではなくコスモロジーである。因果関係ではなく星座(コンステレーション)の学問だ。自分を関係の中に入れ込むこと。それによって<意味>が分かる。多神論的思考。お互いが理解しえないことを理解し、それでもその人と関係を切らないこと。全然違うがゆえに、もっと話し合おうではないかと言ってみてはどうか。愛するとは「いかなることがあっても関係を切らないこと」だ。愛されなかった子供はなぜキレるのか。それはもう既に関係が切れているからだ。居場所がないこと、吸うべき空気がないことを訴えている。なぜ彼らの声を聞いてやらないのか。


ところで、日本は多神論だろうか。アマテラスとスサノオの対立構造と、ツクヨミノミコトの中空構造が日本神話である。ここがギリシア神話とは根本的に違う。左翼が同じ服装してる。大震災で無政府状態になっても略奪が起きない。反対集団も母集団と同じ集団を作る。不在で透明な中心(長老=実は何にも分かっていない)の命令が強い。日本の一神論は言語化されてないぶん、西洋の一神教よりなお、特殊な一神教なのではないか。良い面も悪い面もある。西洋では社長(理念的で論理的な男が選ばれる)を倒せば会社のルールを一気に変えたりできるわけだ。しかし日本ではまぁまぁと言われて飲み屋に連れて行かれる。


日本では、嫁入りの儀式と葬式の儀式が似ている。茶碗を割るのだ。その前は、日本は子供を甘やかす。いわゆる箱入り娘だ。結婚してから母親になる訓練が始まる。それがシュウトメによる嫁いびりだ。つまり、家から嫁を送り出すことは、甘やかした娘を殺すことになる。もう帰ってこないものと想定する。だから甘やかす。だから茶碗を割る。西洋は「母親になる訓練」を子供の時からやっておく。日本は「勉強しろ!」という説教にその訓練の時間を奪われている。



原始、日本に個室はなかった。居候がいたりして、プー太郎の叔父さんが子どもの友達だった。家全体が子供を育てる。いや家だけではない。ホタルも蝶々も子育てに協力する。おじいちゃんは科学の時代に科学を無視して、変身するタヌキについて話し、おばあちゃんは父母の教えを平然と無視して、こっそり飴玉をくれる。こうして、近代家族は祖父母の世代を煙たがるが、祖父母は、父母の裏面(裏の父・裏の母)をやっているのではないか。なぜそんなことが言えるのかはこれから論証する。


理想的な子供の教育とは、ジレンマの只中に子供をおくことである。裏の母である祖母が、お母さんが禁止しているお菓子をこっそり子どもにくれたとする。すると、お母さんに『誰にお菓子なんかもらったの』と問いただされたときに、『おばあちゃんがくれたの』とは言えない。なぜならおばあちゃんが大好きだからだ。しかし、お母さんも大好きだし、嘘をつくのもいけないはずだ。こうやって子どもは思考することを学ぶ。友達から、『絶対に誰にも言うなよ』と言われた秘密を誰に言えばいいのかを、子供はここで学ぶのだ。


和辻哲郎が『風土記』で言ったことを思い出そう。モンスーン型の地域では、母はきまぐれになり、父は、農作物が育つのを待つために受容的になり忍従的になる。農耕をするために、周りの天候を見るために周囲を見渡すようになる。台風が来ると、それに耐えるために歯をくいしばるようになる。とにかく台風が通り過ぎるのを待ってとことん耐える。だから戦争が始まると、とことん耐えて耐えて耐えて子供を戦争に送り出したりするし、お上の言うことにはとにかく耐えるようになる。これが日本の強い父親像なのだ。これは西洋においては母性と言われている。『俺は戦争にはいかない!なんでこんな戦争に行かなきゃいけないんだ!答えろ!』という決断を迫るタイプの思考こそが父性である。日本の父は母性的なのでそういうことは基本的になかった。次に地中海・牧場型地域のひとは、自然が従順なので、規則性と合理性を重視する。これは母性でも父性でもない。次に砂漠型地域の人は戦闘的・対抗的な思考をする。これは朝青龍のことだ。朝青龍の出身はモンゴルである。というか、砂漠においては、父性というのはひとつとって全てを捨てることだ。それくらい強い切断である。例えば、ヤギの群れを率いるときに、一匹のリーダーのオスだけ残して、他を全部殺したりするのが父性だ。だからこそそれを保障するマリア様が重要になる。これは京都大学の谷豊が『聖書世界の構成論理』でも述べたとおりである。つまり、日本の父とは母性なのだ。西洋において、父性とは切断である。母性は包摂である。ちなみに、母性を父が担ってもいい。ちなみに、父性を母が担ってもいい。いずれにせよ、家庭には2つないといけない。日本の父というのは母性的である。日本の子どもというのは父性的である。それにしたがって、日本の母というのは父性的になってきた。西洋の理論を東洋に適応するとこれだけねじれてしまう。日本において父性が発揮されるということはめったにない。極めて危険である。日本社会で、『あなたの言ってることは間違っていると思う』と言ったらもう終わりである。男はいつも会社で母性的に振る舞う。『いやいや皆さんの言うとおりでございます。』と耐え続ける。しかし母は父性なのだ。『あなたはっきりしてください!』という妻が増えてきた。日本女性や子どもの心は気まぐれなので、西洋の父性を速攻で内面化できるのだ。だから子どもの要求も強くなる。取り残されるのは母性的な父ばっかりだ。


そもそも人間はなぜおばあちゃんからもらえる飴玉ごときで嬉しいのか。それは、「絶対ダメだけどたまにオッケー」というものだからだ。飴玉もらったくらいじゃ別に今時嬉しくないはずだ。しかしお母さんはおやつを禁止しているとしたら、おばあちゃんだけが、裏の母として甘やかせるのだ。とくにおばあちゃんは自分の子どもじゃないからとことん甘やかすことができる。急に核家族になって対応できなくなった。親が一所懸命になった。一所懸命という概念は定義よりあらゆる場合においてクソである。一所に懸命になって良いことは絶対にない。リスクは全体で分散するべきだ。


一方で、西洋には個室がある。しかし、むしろ居間(リビングルーム)を重視する。西洋は核家族という近代制度を作るためにどれだけ工夫をして、苦労をしてきたか日本人は分かっているのだろうか。ある制度は必ずメリットとデメリットがあるわけで、きちんとデメリットを考えあぐねた上で、工夫して導入せねばならない。日本はすぐ近代家族制を導入し、使ってしまった。西洋人の子どもは特別な用事がないときは、そして成人するまでは、居間にいるようにしつけられている。14歳くらいになると初めて個室の鍵を渡されるのだ。友達が家に来たら必ず家族に紹介する。すぐに自分の個室に閉じ込もってみんなでゲームをやって、母親にはジュースを持ってこさせるだけなんてことは絶対にない。西洋のやってることの猿真似はやめたほうがいいだろう。なぜなら文化的素地がないからやってもうまくいかないからだ。だとすれば、日本の核家族家庭は、裏の母、裏の父を導入すればどうだろうか。どうやるべきか。誕生日には必ずある決まったケーキを買って、他の日には絶対買わないというルールを作ったらどうだろう。そうするとリズムが生まれる。誕生日でなくても別にいつでも買えるもので構わない。子どもはそれでも喜ぶからだ。なぜなら、子どもが欲しいのはケーキではなく愛だからだ。安いケーキに感激してみんなで喜んでしまえ。その嘘を、心底子どもは喜ぶ。なぜならその嘘は本当だからだ。誕生日の日にだけもらえる安いケーキの裏に愛を見抜き、毎日食べれる高いケーキの裏に、愛をカネで買う大人のクソさを見るのが子どもたちだ。


子どもはバブルが崩壊して喜んでいるかもしれない。なぜなら、バブルが崩壊したことで、父が家に残業せずに家に戻ってくるからだ。みんなで貧しくなっていきましょう、というのは、みんなで幸せになっていきましょう、という意味かもしれない。テレビは丸かった家庭を半円にした。いまや個室にひとつテレビがある。みんながマスコミからイデオロギーを受信している。テレビのキャスターの言っていることを家族でも話す。


心を使う代わりにカネを使うな。それを子どもは絶対見抜くぞ。高い商品を要求する子どもは、それが本当に欲しいのではなく、親は自分への愛のためにいくらのカネを使うのかを試しているのだ。


まず安易に愛さないことから出発して、本当に愛するとはなにかを考えろ。


ところでノイローゼとはなにか。ノイローゼっていうのは、「これさえなければどんなに俺はすごいか」って言う人のことである。「うちの子供さえ学校に行けばすべて解決する」という専業主婦の考え方だ。しかし、それが言えるのはノイローゼがあるからで、ノイローゼってほんとに素晴らしいよね。だって、ノイローゼが治っても多分その人は自分で言ってるほどそんなにすごくならないし、治ったらノイローゼのせいに出来なくなるのだから、理想と現実の乖離でよりつらくなるのは目に見えている。その意味で、ノイローゼは登山に似ている。登りきると、また登りたい山が現れる。登山家は山から降りてくると、「もう山なんか懲り懲りだ。二度と登りたくない」と言うくせに、しばらくするとまた登りたくなる季節がやってくる。案外、悩みというのは抑え込むと、違うところにもうひとつ現れるらしい。悩みは抑制するべきではなく、直面し、末長く付き合っていくべきなのだ。性格も同じである。幼年期を過ぎたら、人間の性格はほとんど変わらない。どんな性格にも必ずメリットとデメリットがある。口下手な人は聞き上手になれる。男らしい人は神経がガサツだ。神経がガサツな人はおおらかだ。神経質な人は繊細なのだと思ったらいい。その人の素晴らしさを見つけて肯定できる。それが知性だ。だとすれば、どんな性格も変える必要などないではないか。重要なことは、自分の性格を自覚し、メリットを伸ばすことだ。それを助けてやるのが教育なのではないか。知識を授けるのではなく、万物の楽しみ方を教えろよ。



さて、深層心理学とはなにか。私がまさにこの私のことを考えて物語にして普遍化させることが深層心理学である。なぜ物語は<普遍化>できるのか。物語は生きながらにして作られていくのだが、人間はそれぞれ全く違うのに、<人間の作る物語のパターンはそんなに多くないから>である。みんなが生きながらにして物語を作るのだが、その物語が少し本当の自分とズレている。どんな伝記も本人と少しズレている。お通夜の時に友達が話す自分の人生と、実際の自分の人生が少しズレている。そこに私の生きた証がある。この意識と無意識のズレがある一定の量に達して意識がもはや無視できなくなったとき、無意識からある暗号が送られてくる。これが悩みだ。フロイトはノイローゼだったし、ユング精神分裂病だった。悩めるということはなんて素晴らしいんだろう。光の波動説という物語が粒子説に勝利したとき、エーテル説はいよいよ絶対視された。しかしながら、光が高速を維持するためには媒質はものすごく硬くないといけないはずだ。しかし地球の公転は硬い媒質との摩擦によって減速していかない。ということは、エーテル説を絶対視することでエーテル説の矛盾はますます溜まっていく。これを解決するには光の速度を慣性系の中で不変定数化しないといけない。しかしそうすると、あそこの時間とここの時間は違う時間が流れていることになる。同時刻はありえないなんてことがあるだろうか。物体が平面になってたまるか。銃弾を走りながら撃ったら銃弾は速くなるはずだ。なぜ光はそうならない。こうして科学者という物語作家たちは悩み始めた。悩むことは自分たちの物語の更新を無意識によって迫られているということだ。人生にもそういう時期が必ずやってくる。どうやってその症状を生きるか考えなきゃいけない。そのとき、他人のことにはすぐ気がつく。しかし自分の症状には気づかない。誰にでもなんとでも言える。深層心理分析は、的中したときには分析が当たったことにして、外れたときは本人の抑圧のせいにしてしまえばいいのだ。だから、深層心理学は他人に適応できるものではない。井筒俊彦の『意識と本質』には<自分の>意識の深層への旅がしっかり書いてある。花が存在してるのではなく、存在が花として顕現(manifestation)しているようになるのが意識の深層だ。


星の散りばめられただけの夜空を見ているとそのなかに柄杓が見え、白鳥が見え、大熊が見え、サソリが見えてくる。これを<布置>という。コンステレーションという。星座は変わる。北極星だって位置が大きく変わっている。しかし、その都度、星座は見えるじゃないか。自分の位置から見るから星座が見える。星座のひとつを構成する星には、自分も入っている。自分も入れ込んで初めて見えてくるこの星座の布置が<意味>だ。他人に適応する深層心理学分析にはなんの<意味>もないといったのはこういう意味だ。他人を深層心理分析するのは、やっちゃいけないのではなく、それは単に<意味>がないのだ。自分の子どもの万引きというある現象の<意味>が深層心理学を使うと、フッと分かる。北斗七星は地球から見たらヒシャクに見えるが、違う星から見たら、ヒシャクには見えないはずだ。

猿でも分かるデリダ②、あるいは言語の外部に出ることはいかにして可能かーデリダ・フッサール・山浦ー

忘却しないと日常が成り立たない。忘却しないと正気ではいられない。たとえば永井均なら私の独在性を忘却していると主張する。つまり、私の単独性は忘却していないと日常が成り立たないというのだ。ラカンだったら死の欲動を忘れることで生きていられると言うだろう。アウグスティヌスだったら愛を忘却しているという。レヴィナスだったら他者による倫理的な呼びかけの先行性と言うだろう。マルクスだったら、スミスやリカードが価値形態論における交換の非対称性を忘却していると言うだろう。プラトンだったら愛だ。ハイデガーだったら存在と存在者の区別を忘却しているというだろう。ハンナアーレントだったらアテネ的な公共性だろう。デリダ的にはエクリチュールの根源性が忘却されている。みんな違う。しかし、これだけは言える。「忘れているから、それを復活させましょうよ」ってなったらクソ哲学だ。頑張ってもう一回やろうよって言っちゃってるのはクソである。そもそも、なぜ喪失に気づくことができるのだろう。忘却においてしか出現することができない。そういうものがあるのではないか。完全に忘れているなら思い出せるわけがないじゃないか。山浦、あんたはなにを忘却してると感じる?それがその人の哲学だ。哲学の使命は「こうしたらよろしい」ではなく「こういう風に考えてみるのはどうか」、「これを考えるのを忘れていませんか」と言ってみることだ。哲学とは何か。無自覚にサインされていく利用規約の再提示である。自分が望んでいるものがなんであるかを発見して、利用規約を書き出し、徐々に獲得し、望んでいるものののいくつかを本質的に獲得不可能なものとして捨てること。



文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損なふことが多くなった。ー中島敦『文字禍』ー



デリダの『グラマトロジーについて』で議論されていること】

純粋なパロールを求めれば求めるほど、エクリチュールによる代補がかえって強まり、透明性から遠ざかっていく。レヴィ=ストロースの中にも代補を介して生き生きとしたパロールを見ようとするルソー的な眼差しがある。現地人は自分たちをエクリチュールなき社会だと思っているのだろうか。レヴィ=ストロースのテキストの中にも先住民たちが自分たちの世界に関する表象を模様にして道具や呪物に書き込む習慣があること、固有名があること(それを聞き出して罪悪感を感じたらしい)、が示されている。なぜその「書き込み」(=原エクリチュール)は西欧人の文字とは全く異質のものであると言えるのだろうか。無文字の先住民だって、社会的主体として自分のアイデンディティをエクリチュール(=フォーマット)へと書き込む準備がもうすでにあるのではないだろうか。レヴィ=ストロースは「西欧人/未開人」の二項対立に自覚的ではあったものの、文字についてはまだかなりナイーブである。デリダはこれを、レヴィ=ストロースがルソーのファンであったからというレベルでは済まされない西欧哲学の根本的な問題であるとして敷衍していった。エクリチュールに代わりに補われることでしか接近できない「透明な」主体は結局どこまでいっても、エクリチュールの外部に出ることはできないのか。どこかに突破口はないのか。ある。



以下参考文献は

野家啓一『物語の哲学』


野家啓一は日本のリチャードローティーだ!


【口承言語という第三の道

口承言語は音声による口から耳への伝達であることにおいて音声言語により近く、他方、発話状況の共時性と文脈依存性とを超えた通時的伝達であることにおいて文字言語により近い特徴を持っているからである。すなわち、声の直接性と伝承の歴史性という双面神的性格を身に帯びている。p30


口承言語は敢えて言えば真理の専制支配を離脱し、同一性の危機を同一性の戯れに転化するひとつの異化装置にほかならない。それは同時に、文字と真理の共犯関係の上に成立した近代文化の存立根拠を掘り崩す手がかりをもわれわれに与えてくれるはずである。p41



【なぜ衰退した?】

口伝えの物語を衰亡に至らしめた外的条件が文字の普及と印刷術の発達であったとすれば、その内的条件は内面の成立と告白の制度化であったということができる。p24



【代補】

ルソーが激越な調子で(告白を)叫んだとき近代的個人は書き記されるべき内面を獲得し、告白という制度をその手に握ったのである。<むろん、ルソーがあらわにしようとした素顔なるものがもう一つの仮面にほかならなかったとしても、それはそれでかまわない>。要は素顔という仮面の背後に告白されるべき内面が形成されたことこそが重要なのである。p24





【日本的近代=文壇における告白】

それに何ぞや申しにくいことではあるが、書くかと思えば身辺雑事小説、何一つの物新しい実験もせぬ癖に、筆を自身の見聞の世界に限って、誇張をおそるること虎狼のごとく、ありのまますなわち文学だと思っている者があり、一方にはまた、たまたま<小児などの自然かつ自由なるウソ>を聞くと、慌ててこれを叱りまた戒めようとする者が多くなったのである。近世の文学論の中には、いかにも中途半端な写実主義というものがあった。生活の真の姿と名づけて、ただ外側の有り形のみを写したものまでが、文芸として許容せられ、そうして<我々が眼覚めていかなる夢をみるか>を省みなかったのである。p28




フッサールとルソー】

いわばフッサールは、理念的客観性(同一性)を間主観性(言語共同体内の追理解)と反復可能性(文字言語の中に沈澱した意味が可能的に無限の読者の前に開示され、その再活性化と無限反復を可能にする。)に基づかせることによってその「不断の存在」を確保することに成功したが、それは反復と再活性化に否応なく伴う再生的変様によって理念的対象の同一性を危機に晒すという代償を払ってのことであった。しかし彼にとって「同一性の危機」はそのまま学問の危機にほかならなかった。それゆえにこそ彼は、本源的明証性の回復を学問共同体の名において要請したのである。(つきつめていえば、最初の幾何学者たち(たとえばユークリッドとか)の心に宿った意味形成の本源的明証性を、時をg隔ててありのままに、あるいは可能な限り近似的に再現せねばならないことを、学者たちの努力目標としたのだ。)p40




最初の人間の言葉は幾何学者の言語であるとされてきたが、私たちにはそれは詩人の言語であったと思われる。当然そうであらねばならなかった。人は初めから考えたのではなく、まず感じたのだ。それならば言語の起源は、どこに発しているのか。精神的な欲求、つまり情念からである。生きていく必要に迫られて、互いに遠のいていく人々を、あらゆる情念が近付ける。飢えや渇きではなく、愛や憎しみが、哀れや怒りが、人々に初めて声を出させたのである。

ルソー『言語起源論』


→『幾何学の起源』におけるフッサールが、言語活動の基盤をあくまでも学問的言説を支える限りでのロゴス、すなわち学問的「理性」の内部に見さだめようとしていたのに対して、ルソーはここで、言語の起源を「幾何学者の言語」にではなく「詩人の言語」に、ロゴスではなくパトスの中に捉えようとしている。喜怒哀楽の情念こそが、人間に最初の言語的音声を発せしめたのである。言葉はまず思考の媒体として成立したわけではない。最初の言葉は情念の直接的で透明な表白であった。むろんこれはルソーが立てた一種の歴史的仮説である。だがこの仮説は歴史的証拠によってというよりは、むしろルソー自身の「直接性への欲望」によって支えられている。ルソーのテクストを「透明性」と「障害」との交錯の中に読み取ろうとしたスタロバンスキーならば、その欲望を「彼が生きることを余儀なくされている世界、すなわち媒介と間接的な行動の世界に対して、人間の関係がより多数でない、はるかに直接的ではるかに確実な手段によって確立されるであろうところの可能性の世界を対立させるために前者と戦おうとする欲望」として分節化するであろうし、またルソーの立論を「ある感情的な欲求がそのようにして歴史的な仮説に変形され」たものとして特徴づけることであろう。(中略)それからすれば文字言語は明らかに「透明性」を侵食する「障害」であり、いうならば奴隷の言語の媒体ということになるであろう。およそ200年の後にレヴィ=ストロースはナンビクワラ族の民族誌の一節を「文字の教訓」と名付け、その中で「文字というものは、知識を強固にするには十分でなかったにせよ、支配を確立するためには不可欠だったのであろう。かくて、文盲をなくす運動は権力による市民の統制の強化と融合する」と述べているが、われわれはここに、遠くルソーの残響を聞き取るができる。このルソーからレヴィ=ストロースに至る文字言語批判の系譜の中に、プラトン以来の「音声=ロゴス中心主義」の正統的な後継者を見出したのは、言うまでもなくデリダであった。すなわち、「形而上学のこの時代の内部にあって、つまりデカルトヘーゲルの中間にあって、確かにルソーは、この時代全体を通じて根本的に内包されているような文字言語の還元を主題にし体系付けた唯一のあるいは最初の人である」というわけである。しかし、(中略)ルソーにおける音声言語の優位性は、ロゴスに対するパトスの根源性に基礎を置くものであり、むしろ近代哲学の中に支配権を確立しつつあったロゴス中心主義に対する根本的な批判を企図したものであった。それゆえ、ルソーをロゴス中心主義の代表者に仕立て上げることは、彼にとっていささか酷な処置と言うべきであろう。だが他方で、デリダが放った批判の矢がルソーの音声中心主義の背後に潜む、彼の痼疾ともいうべき「直接性への欲望」そのものに向けられたものだとすれば、ルソーをプラトン以来の「現前の形而上学」の系譜の中に位置付けることは、それなりの根拠を持った主張だと言わねばならない。直接的で透明なコミュニケーションを求める欲望は、言語論の文脈においては、しばしば意味作用を支配する話者の特権性を暗黙のうちに前提し、意味理解の基準を話者の意図の現前に還元する構図を採用することにつながるからである。したがって、デリダのルソー批判は、むしろ音声言語における「話者の特権性」の解体を目指したものとして読まれねばならない。そのような観点からすれば、デリダの音声言語批判は、「口承言語」の特質を側面から照射する役目を果たしてくれているのである。p43




リゾーム的物語生成】

私たちはこれを説話の変化部分、または自由区域と呼ぼうとしている。ひとり後代の御伽冊子が、その真似をしているだけではなく、口で言い継がれる昔話においても、婦人などの忠実に聴いた通りを話そうとする者の他に、その場相応の改作と追加とを、かなり巧妙に試みる者があったのである。上古の最も厳粛なる神話時代にも、これはなお認められていた技術だと私は考えている。すなわち赫奕姫(かぐやひめ)に幾人もの求婚者があり、いかなる方法をもって近寄ろうとしても、徹頭徹尾決して許さなかったという筋は不変であって、ただそれを例示する幾つかの場合を、話者または筆者の空想の活躍に委ねたのである。これもあまりに面白く巧みにできたものは、後には定まった型となって守られ、あるいはそれからまた一つの新たな話が分岐することもあったようだが、原則として取捨を許されていた。柳田國男


→ここではリゾーム型の物語生成の過程が実に鮮やかに描き出されている。花田清輝はそれを指して(中略)「送り手と受け手との相互交通の上に立った、文字によって拘束されない、ダイナミックな表現」を通して「説話全体に溌剌とした画期と無限の柔軟性」が与えられていると述べているが、まさに言いえて妙というべきであろう。p74



Cf.言語以外(パロールでもエクリチュールでもない)のミディアムとしての身体、それもアルトーのいう「器官なき身体」も直接性への欲望の系譜なのだろうか。



淀川長治のような、映画を語り続ける人が必要なのだ。蓮實重彦



ブレヒト『銀行強盗など、銀行を建てる暴力に比べたらどれほどのものか。』


デリダ:悪の存在論

第1のエクリチュール暴力:お金が存在する暴力(名付ける暴力)

第2のエクリチュール暴力:銀行を建てる暴力(第1の暴力を隠す暴力、つまり、金を隠す暴力すなわちモラル=名前を隠す暴力)

第3のエクリチュール暴力:銀行強盗をする暴力(第2の暴力に対する暴力)

デリダ「レヴィストロースは研究頑張ったみたいだけど、貨幣(もしくはその代替物)の存在しない社会なんかほんとに存在するのか?」



ある物理学徒、山浦への誠実な文系学徒からの応答。ーさしあたることについて、あるいは、さしあてることについてー

今から何ヶ月も前のことだ。ある日私は、山浦という友人に、無限後退について示唆されたことがある。今でも私はそれを覚えている。ずっと考えていた。メタのメタ。メタのメタのメタ。。。。そうやってどこまでも無限後退は続いていく。文系の分野からこの問題にどんな回答を出せるだろうか。それは多分こういうことだ。どの学問もどこかで無限後退を"いい""加減に"とめている。どこかで『全体』とすること。仮に全てを獲得しても、すべてを書けない。ページ数の制約という物理的な問題。自分だって世界だって無限だからどこかで諦めるのだ。大学生としては、レポートに締め切り日と文字数制限があるありがたさについて少し書いてみたい。書き終えていくことがなにかを書くということだ。粘土制作は粘土によって終わる。しかし言葉は滑る。粘土には可塑性がある。可塑性とはすなわち粘土の抵抗感があるということでもある。形を変えられるということは、変わる形があるということだ。では、言葉の持っている可塑性、すなわち、抵抗感、すなわち、言葉の粘土性を感じろ。これはカトリーヌ=マラブーが言ってることだ。円城塔という人が、コンピュータが現実そのものを計算で現出させ、そこで感受性を実現できたとすると、それは現実そのものとなるから、現実は無限なので、それは世界そのものと同じようにキリがない計算になってしまうじゃないか、ということは、そんな計算できるわけがない、という鋭い指摘をしている。つまり、インターネット世界は、擬似的な無限に過ぎない。インターネット世界を世界だと思ってしまうところに、そもそもの感性の鈍感さからくる誤謬があると言うべきだ。これはある意味で感性の愚鈍さであると同時に、"感性の鋭さ"でもあり、ある分野では重要な想像力なのだろうが、私はこれを否定する。現実を自分の身体に即して、しっかり掴めていない倒錯だからだ。この円城塔の指摘と、まったく同じ構造で、たとえば、『カントについてすべてを書くためには、カントのように考えるしかない。この世界を、カントを中心に繰り広がる世界だとして考えてみるしかない。自分であることをやめて、一度カントになるしかない。しかしながら、カント自身だってカントに関するすべてを書けなかった。つまり、彼だって自分のことをどこかで自分だとした。この言葉の極めて祝福的な意味において、『いい、加減に』書き『終えて』きた。つまり、どこかで自分という全体を枠にして、作品にして、締め切りに間に合わせてきた。そしてそもそも、私はカントではないし、カントにはなれない。』と言うことができる。そんな無謀な倒錯はそろそろやめた方がいい。この不可能性を超えることを、目指している人が多すぎる。ところで、有名な、意識の減算モデルとは、記憶にも敷衍することができる。それはどうやればいいかというと、以下のように考えてみてほしい。『思考の本質とは、差異を無視することだ。それはつまり、要約することだ。思考とは、切り捨てることだ。思考するとは、<さしあたり、同一パターンのように見える部分については思考しないということ>だ。』と。重要なことは、このように、いつも『さしあたり』『また今度』を意識的に行うこと。そうじゃなかったら、世界そのものと思考は同じになってしまう。そしてそれは出来ないので、絶対に病んでしまう。しかしながら、何かを書かねばならない。さてどうするか。自らの有限性を複数化すればいいのである。多重人格になるということだ。いや、ちがう。そもそも我々は既に多重人格なのだ。ある演劇、いや、オペラがあったとして、その千秋楽まで、すべての公演を見ることは時間的にも、金銭的にも、能力的にもできないし、次の公演と前の公演を比べることもできない。その公演を見ている間に、公演期間中にありうるすべての公演と比べて、そのクオリティを比較判断することもできない。その都度その都度、その公演を肯定していくことだ。よくある、ありがちな可能世界論のクソさは、『なにかを選ぶと、選ばれなかったなにかが消えると思っていて、その選ばれなかった選択肢が消えることが、その後悔が、むしろその選択を鼓舞し、駆動しているということだ。』言っておくが、世界にはこの世界しかない。いや、そもそも、この世界があるとすら私は言っていない。しかし、この世界自体が多重化していて、複数の世界が織り込まれている、とは言っている。いくつもの世界があるのでは、ない。よくあるタイプの平行世界論はマジでクソである。ネルソン=グットマンの非実在論は面白い。この世界もない。しかし、『ある』とした時、そのバージョンは重なり合っている。それが、私が先ほど言った複数の有限性を持つということだ。これは無限後退ではない。引き受けざるをえないその都度の認知限界に応じて、ものを調べろ、という人生論について話している。どんどんネットサーフィンするなということだ。それは無限後退だからだ。こういう複数の有限性の中で生きることを、環世界間移動能力という。世界フレームの切り替えと多重化。これが、多重人格である。多の中に一があると考えるな。一の中に多があるのだ。自分の多重人格性に気付け。{自分という無限:世界という無限}、こういう無限と無限が接する機会を大切にしていき、その都度、肯定していこう。これを自由間接話法という。浅田彰宇野邦一小泉義之檜垣立哉國分功一郎・千葉雅也のドゥルーズ・モノグラフィーがやってたのはそういうことだ。『構造と力』は人生論だ。何が悪い。人生論を冷笑するな。自分の人生に役立たない哲学や思想なんて、その方がむしろ何の意味もねぇだろ。おまえ、役にたたねぇもの読んでどうするの?かっこつけてんじゃねぇぞ。すべての本を自分の人生論として読むんでいいに決まってんだろ。それがドゥルーズの方法(自由間接話法)だ。これはエゴイズムではない。ホワイトヘッドのセルフエンジョイメントだ。アガンベンの自己享楽のことだ。ちょっとゆっくり考えてみよう。エゴイズムではないとは、つまり、他性と向き合うということだ。しかし、レヴィナスデリダみたいな責任とかは、正直、重いんだよ。めんどくせぇ。そうじゃなくて、他性と向き合っているのに、すべての存在者が自分を楽しんでるってことだ。ラカン曰く、享楽すなわちフランス語でジュイッサンスとは、ジュ=ウイ=サンスすなわち、『なにかの意味を理解する』ことだった。しかし、セルフエンジョイメントとは、フランス語ではなく英語だ。つまり、サンスではなく、ノンサンスを理解することだ。ここがラカンと違う。大震災は無意味なのだ。いや無意味ですらないということだ。アレクサンドリア図書館が燃えるということ。アトランティスが沈むということ。下意味だ。フランス語でアンフラサンスという。まったくの海のような状態。脳が事故で欠損すること。どうでも良すぎるほどのネガティビティ。これを鋳型にして有限性は仕切られる。この切断。もっと具体的に言えば、原稿が8000字に決まっているということ。身も蓋もないような切断。制限。これが無限後退を止める唯一の文系の俺からの答えだ。たとえば、このような、人間と相関しない、まったくのナンセンスを考えることができるとすれば、(私はそれにはかなり懐疑的だが、)カンタン=メイヤスーのスペキュレイティブリアリズムという理論が役に立つ。これ、すなわち、"人間抜きの哲学"だ。ヒューマンアクセスとはまったく無縁の、"それ自体としてあるもの"についての思弁だ。カントは所詮人間と世界のコーリレーショナリズム(相関主義)だった。人間なき思弁。『有限性のあとで』はそういう究極の実在論だ。誰にも見られたことのない"世界の片隅の花"についての思考だ。カント主義では、人間の絶滅と発生以前について肯定的に考えることができない。"下意味(アンフラサンス)"な生成変化についての思考がない。確率と偶然は違う。確率とは出来事がジェネレートする系があって初めて、その中で、測定可能なものだが、偶然とはその系自体がゆらぐようなカタストロフのことだ。震災とはまさにそういう出来事だった。震災がくる確率のようなものは、来た瞬間には、まがまがしく1になってしまった。あのような"まさしくナンセンス"によって、有限性は区切られている。分かったか?これで答えになっているだろ?俺の友、山浦よ。

山浦にしか伝わらないフッサール概論。

『世界は自我を超越しているのに、なぜ与えられるのか。』という問いを、既に自然主義や客観主義の一派である科学は、問いではなく既に前提にしている。反自然主義の基礎付けはフッサールの仕事だった。フッサールは心と世界は真理によって繋がると述べた。意味がわからない。意味がわからないので、少しそれについて述べる。


なぜ意味がわからないかというと、そもそも、真理の概念こそ客観主義の元凶だったはずだからだ。しかし、ポストモダンにおいて、真理の概念が無意味になったというのは本当だろうか。んなわけねぇだろ。



信じるとは、真だとみなすということだ。スミレの花をみたとき、そこにスミレの花があることを真だとみなしているのである。真だとみなすからこそ、そのスミレについての会話ができ、そのスミレに触ろうとするのだ。真だとみなすことは、その世界に全幅の信頼を置いて、身をまかせるということだ。つまり、信じることは第一に推論的思考の前提になる。前提が正しいことをまず信じなければ、三段論法すら機能しない。第二に行動に不可欠の前提になる。真理を媒介して心と世界が繋がっているとはどういう意味かというと、真であるとみなすことを通じて、世界は現れるという意味である。これをフッサールの言葉で表象という。表象は昔々、観念という、まったくよくわからない中間項を挟んで説明されていた。しかしこれには自ずから、心の中の観念は実在についての本当のことを表現しているのか、心の中の観念はそれ自体で内的な真理を表現しているのか、といった表象の正しさを問う規範的な問いかけが内蔵されている。規範的とは正しさが何かに依存するということであり、何に依存するかというと、規準であり、その規準は外的事物の実在性なのである。しかし、観念は外部についてなんの主張もしていない。外部と自分を比較する判定すらしていない。これらの規準は文『赤い観念は実在の赤を表している』という文が担わされた役目なのである。心の中の観念にな、正しさも正しくなさもなく、それが表象と呼ばれるためには、真偽値を取れて、表象の規範的特性を成り立たせる文の一部として組み込まれる必要があるのだ。世界を表象する基本単位を文だとみなす発想、そして、信念は内容が真偽値を持つ文の形式で表現されるという発想こそ、フレーゲが最も強調した点である。ここに彼より速く気づいていたのは、ライプニッツとカントだけだ。どちらもドゥルーズの系譜である。



(フレーゲに言わせれば、文の意味とは真偽値のことであり、それを決めるのは語ではなく文である。ただし、フレーゲの表象はフッサールの表象と意味が違うので気をつけなければならない。フレーゲの表象は、主観的なよくわからないものである。ソクラテスは美しいと、プラトンの師匠は美しいは、意味すなわち価値が同じで意義(=思想=信念内容)が違う異なる文である。)


しかし主観側が真であると『思いなすこと』とはまた違う。ここが重要なのだ。真であるか偽であるかは、世界のほうから、決め方もろともやってくる。それに従うことしか出来ないのである。そして信じるからには、従うべき規範がともなう。フッサールによれば、スミレは、意識にそのときどきの位相で現出するが、スミレという事物それ自体を定義するものは、そのときどきの位相を超えて、より多くの隠れた現出を秘めているのだ。事物にはこの汲み尽くしがたさがある。事物はその表象と同一ではないが、その現れとの相関してその都度定義される。これがフッサールの主張である。これはバークリーやヒュームが言ったように、予測される条件に応じてさまざまに変化する心中の単なる観念の束だと言っているわけではまったくなく、じかにスミレの匂いを嗅いだり、そこにスミレがあるとみなす信念や、変化させたいという意図でもあるのだ。現れの汲み尽くしがたさを、我々はもう既に承認して、それに参与してしまっているのだ。


近代哲学は、表象を断片的な観念に担わせた。しかしながら、心と世界のつながりを形成するのは、むしろ、判断や信念や文だと言ったのがフッサールだったのだ。現代意味論の始祖フレーゲも似ている。表象の担い手は、心の中の感覚やイメージや体験ではなく、かといって、物体の電気信号でもない、『意味』という存在領域を成すことを確認したのだ。しかし、ふたりの相違点は、フッサールは判断や文や最も世界に対して直接的な知覚といえども、信念の志向性からは逃れられないと考えた点である。だから、文ではなく、文の内容を信ずる信念志向性を押し出してくる。ここがすごいところなのだが、知覚っていうのは、文になりようがないはずなのに、知覚にも真であるとみなすことの資格を与え返したのだ。


フッサールって、古代ギリシアチックなのである。心の探究は自然の探究であり、自然の探究は心の探究であると言っているわけだから。科学者はむしろ、自分もその自然の一部なのにもかかわらず、自然から自分の匂いを消し去り、純化した自然像を妄想してみて、今度はそれに自分をも統合しようなんてしているものだから、とってもバランスの悪いことをやっているのである。そんなことをするから、"心の独自性"なんてものがむしろ際立ってくるのだ。変なことをすれば変なものがでてくるのは、当たり前の話である。


ところで、フッサールといったら、有名なのは現象学的還元という言葉であるが、これは、意識の現れの領野への回帰という意味ではない。心と世界の結節点である真理によって解釈をされた存在として、世界を見出す手続きのことである。存在を疑うことができない純粋意識にまで還って、その意識が世界を構成する仕方を記述することだとも言える。しかし構成するとはなにか。悪名高きデカルト的基礎付け主義と何が違うのか、構成するという動詞の内実が分からなければ何にも分からない。



さて、術後を準備していこう。クオリアとはなにか。感覚質のことだ。赤い色をみて、それが青だとすることは全然できるんだが、その見えている色を見えていないことにすることはできない。その見えている色のことをクオリアという。これで何言ってんだお前と思った人は、海を見たときの解放感だと思ってください。AIに海を見せて、解放感を感じさせるにはどうしたらいいんだろうか。エラーになるほどの情報量なのだ。これは、ハードプロブレムと呼ばれているらしい。てかそれ、難問って意味やろ笑。諦めとるやないかーい。ただ、このクオリアフッサールの志向性に比べて弱すぎる概念である。というのも、海辺が眩しいから移動しようという文に山浦が同意して頷いたとすると、お互いの心の中で異なるクオリアが生じただけではないからだ。それよりむしろ、複雑な合理性システムが行動を可能にしている。あまりクオリアは関係がないのだ。『ここは眩しすぎる』という信念を持ち、そして行動する。そのとき、海の家についての信念、そこへの看板を見たという信念、看板はおおむね正しいという信念、信念を支える信念が複数あるはずなのだ。合理性とは抽象思考という意味ではなく、志向性システムのおかげで適切な仕方で行動できるという意味である。科学もこの信念なしにはありえない。実際、科学も含めて、全てが、疑いうるのだから。科学も自然についての信念システムである。問題は、その科学という信念システムが、自然についての最も正確な表象を与える、あるいは与えるべきである、ということを現代社会が科学に執拗に要求し過ぎていることだ。なぜ、小林秀雄が論じた『常識』『直感(虫の知らせ)』だって、たいていの行動を成功に導いている信念システムなのに、なぜそれらより科学のほうが正確な表象だと言い切れるのだろうか。どちらにも、一長一短あるというのが私の立場である。(というより、我々の感性は恐るべき速度で、身体が計算を成し遂げて与えられるとは考えられるのではないだろうか。)



信念(たとえ、本当でないことでも、なにかを真だとみなすこと)に代表される(他に欲求・意志・愛もある)志向性(意識が自閉しておらず、常に何かについての意識であり、誰かと共有できること)には2つの特徴がある。


①物理法則とは違うしかた(物理法則はどちらも世界の中の実在物でなければ機能しないが、人間の信念は嘘の予言でも信じれる)で、意識の外部へと向かっていて、行動と推論の前提になる。

②充足条件を世界へと投げかけながら世界へと向かう。ある信念は、内容通りだという意味で充足するか、そうでなければ充足されないという条件を世界に投げかける。


というか、意識を物理法則の担当領野と完全に分けるには、この比喩が失敗していることを示せば充分である。よく、意識とは流れのようなものだという比喩を聞くが、あれは完全に間違っている。流れが意識のようなものなのだ。意識を川の流れの比喩で説明できるのは、遠くにあったものが、現在のある一点に接近し、その点から遠ざかるという現在を中心とした秩序が既にあるから、であることに無自覚であってはいけない。現在がないと時間は流れないのだ。現在の期待があって、それが現在に接近し、過去へと現在において忘れられていくという現在中心の時間秩序こそが川の流れを可能にするのであって、決してその逆ではない。単なる移動は流れにならないのだ。


ということで、いわば、クオリアは科学を拒絶している、俺に言わせりゃよくわかんねぇ甘いもんだが、志向性のほうは、むしろ、行動を生み出す機能として、高等生物行動の科学研究の対象にすらなりうるのだ。というより、機能よりずっと面白い概念である。なぜなら、世界についての私の信念は、自分の考えが正しいことに理由を与える正当化の一部を成すとともに、他の信念との組み合わせに応じて、信念システムを更新したりする自己点検的なものだからだ。


今日はここまで。




猿でもわかるハードコアなフーコー、あるいは全世界を流謫の地にするためにー無限の単なる否定ではなく、内発的に臨界と起源を問う力能に満ち満ちた有限存在である山浦についての自論、すなわちキュクロプスとポリュトロポスの狭間でー



フーコーの著作『精神疾患とパーソナリティ』(この本の邦訳の99ページはすごいことが書いてある本です。『ほんとかよ笑』と思ったらそこだけ開いてみてください。)の中に分裂症の患者が次のように証言する場面がある。「わたしは世界から除け者にされ、生活の外部にいるようでした。わたしの目の前で、混沌として映画が映し出され、わたしはただそれを眺めているだけで、一度も参加できなかったのです。」これが、デカルトでなくてなんだろうか。デカルトの『方法序説』は、離人症的体験のモノローグとして読めるのではないだろうか。自分の自分からの疎外(アリエナシオン)の記録である。デカルトはその胡蝶=誇張的懐疑の階梯として夢を用いるのに、なぜ自分の思考がすでに狂っている可能性については問わなかったのだろう。なぜなら、デカルトの時代、狂気は制度的に疎外されていたからだ。(フーコーは思考する主体から狂気を除外したのに対して、一方で言語の畑が好きなデリダは懐疑の対象から言語の意味を除外したのだと訂正した。)



僕にとって、フーコーは、カントからニーチェの通路を、『歴史的アプリオリ』という概念を使って、こじ開けた人という認識です。ドゥルーズは、フーコーから、次の世紀はドゥルーズの世紀になると予言された。僕もそう思う時がある。しかし、『フーコーとは誰か』。この質問はフーコーが最も嫌ったものだ。なぜか。フーコーは『ジュードヴェリテ』(真理の戯れ)を発想した。これは、ひたむきな遊びである。ジューはプレイのことだから、遊びでもあり、演劇でもある。彼の人生は、「ソクラテスの仮面の下で、不意にソフィストの笑いが炸裂する」演劇であった。どういうことかというと、フーコーにとって、『自己』や『真理』というのは、もはや固定的に見られた硬直した存在ではなく、見る主体と見られる対象との間にその都度結ばれる関係であり、主体も対象も生成という観点から捉えなおされることによって、何らかの所与の関係に拘束されるものではなく、むしろそれを能動的に形成するものであり、主体となるということは、何を対象とするかと相関的であり、この主体と対象、両者のうちに成立する空間こそが『真理のゲーム』なのだ。この真理のゲームを通してのみ、主体は真実を語る。これほど自分探しの罠から逃れる術を美しく語った『舞台の上の哲学者(フィロソフス・スケーニクス)』はいないだろう。


フーコーが自己自身であることを拒否する病気、すなわちエイズで死んだ時、棺に向かって、ドゥルーズフーコーの『快楽の用法』を朗読した。以下はドゥルーズフーコーの棺に向かって、しわがれた声で朗読した内容の全文である。僕と山浦は、こんな関係を築けるだろうか。僕はドゥルーズが盟友フーコーの棺に向けて語りかけたこの言葉をいま、読み返す。


ー私を突き動かした動機は極めて単純なものでした。しかるべき人の目にはそれだけで充分だと映ってほしいような動機、すなわち好奇心です。しかしそれは、粘り強い修練を積む価値のある特別な好奇心です。つまり、知ると都合の良いことを手に入れようとする好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にするような好奇心です。仮に、知へのひたむきさが、知見の獲得のみを保証し、特定のしかたで、出来うる限り、知見者が道を踏み外さぬようにする点にあるのだとすれば、どこに物を知る価値などあるでしょう。人生には、いつも考えるのとは違う仕方で考えることができるのか、いつも見ているのとは違う仕方でものを捉えることができるのか、これをこそ知るということが、ものを見据え、反省を加えることを継続するのに不可欠の問題となる、そういった転機があるものです。哲学。哲学的な活動という意味で言っているのですが、それが思考の思考自身への批判的作業でないとしたら、今日の哲学とはいったいなんだというのでしょう。もしまた哲学の本領が自分のすでに知っていることを正当化する代わりに、他のように考えることが、いかに、どこまで、可能であるかを知ろうとすることを企てることのうちにないとしたら、いったい哲学とは何でしょう。哲学的な言説には、自らに疎遠な知に関して修練を積むことで、それ自身の思考のうちで、何が変わりうるのかを開拓する固有の権能があります。この試み、すなわち自身の変容のための試練という意味であって、他者を単純化して自己に同化するという意味に解されてはならないこの試みこそ、哲学の生きた身体であり、少なくとも、哲学がかつてあったように依然として今もあるとすれば、思考における、いわば修練、自己自身の鍛錬です。ー



いやーこれ普通に泣けますね。もはや、フーコーについて、大切なことはドゥルーズが言ってしまったように思う。このすっげぇかっこいい方の好奇心ってなんだろうか。ポリュトロポス的好奇心である。有限な存在である人間に、世界は一挙にその全貌を表すことはない以上、われわれとしては、自らの生存を賭けて、あらゆることに対して、位置をずらし、角度を変えて、これを見つめるしかないじゃないか山浦。



エピステーメーについて、分かりやすく言うと、知の編成のことである。全然分かりやすくないので、言い直す。歴史は経験を可能にする条件として働くということだ。これを歴史的アプリオリという。では編成とは何かというと、結び目のネットワークのことであり、それは遠くから見ると、布に見える。布に見えるから、時間が経つと、重なる。重なると地層、ミルフィーユみたいにペラペラめくれる。これがエピステーメーだ。いまんとこ3枚のエピステーメーが知られている。つまり歴史は3枚の非連続な布でできてるってことです。時代順に、ルネサンスの相似エピステーメー、古典主義の表象エピステーメー、近代の有限性エピステーメーです。これらをタペストリーと言ったり、タブローといったりします。これらの共通の枠の中で、「学問」とかいうなんかよくわかんない制度は語られたのです。


相似エピステーメーとは、めっちゃアナロジー使ってくることである。シェイクスピア十二夜なんか典型です。双子がいて、少し違っているんだが、それは隠れているだけで、いずれ隠れている方にもその特性が発現するという話である。騙し絵、錯覚、二重劇、取り違え、夢と幻想の戯れである。演劇は世界のこうした傾向を真似るから、世界劇場という演目が流行する。シェイクスピアはこれだ。



しかし、だんだん相似エピステーメーは土台がないことが、つまり、アナロジーの罠にみんなが気づいてくる。それに代わり表象エピステーメーがやってくる。絵画、地図、演劇、言語、擬音、は再現ではなく、表象とは代理の時代だ。類似性を前提していない。だから、古典主義時代は、言葉・生物・富の分類、分析、交換も表象エピステーメーのネットワークの上で行われる。前期と後期に分けよう。前期は表象であり後半はそれが欲望に結びつく。



例えば前期の典型例は、表象行為自体を表象した古典主義のベラスケスの『ラスメニナス』。絵の奥の方に鏡が見える。この鏡の中の二人は誰かというと、スペイン国王フェリペ4世と王妃マリアーナである。てことは、位置関係から言って、裏返ってるキャンバスの中に描かれているのはこの二人だ。そこを王女のマルガリータが見に来たのだ。てことは、この画面を切り取ってるのは被写体である国王夫妻の視点だ。しかし、それがこの絵の鑑賞者の視点と二重化されている。ちょっと整理しよう。どんだけ表象されとんねん。アホか。えっと、この絵で何が起きているかというと、「鏡にボヤけて映っている国王夫妻を描いている画家を見ている王女たちを国王夫妻が見ているその展望を画家自身が肩代わりして描いた絵を国王夫妻に肩代わりして鑑賞者が見ている」のだ。ということは、視線の主体は画面内に不在であり、主役である王は世界において不在である。これが類似性ではなく、純粋な表象に移ったことを表している。哲学史に置き替えるとどうなるかというと、デカルトは世界に対して観客であろうとしたということだ。デカルトが誇張=胡蝶的懐疑において想定した身体なき精神は、古典主義時代における表象の主体そのものである。これは言い換えれば、演劇の中で自分は不在の立場を守ろうとした。これがこの時代のエピステーメーだというのだ。それが最もよく現れているのが、サブジェクトという言葉である。最初は属性が宿る基体という意味だったものが、主観という特権的地位が与えられるようになった。つまり、色や音が物体の基体に宿るという考え方が人間にも直接敷衍され、色や音の観念は人間の基体に宿るとされたのだ。これによって観念の自閉世界から抜け出すことはできなくなった、し、科学的・観客的・客観的思考が可能になった。分かりやすく言うと、バラはしおれてもバラである。人間も老けたところで属性が変わるだけで、基体は変わらなかった。そこへ主観が登場したことで、同時に客観が登場した。その証拠に、オブジェクトの方も、思考内容という意味から客観的対象を意味するようになった。これにより有限な文法規則で無限の言葉を生成し、自分は死ぬのに連続的生命について考える生物学がうまれる。無限があって初めて、表象の幕から噴出できるのだ。デカルトによる主観発見までは、オブジェクトは主観的内容という意味だったのである。観念は外的事物を表象するものなんだが、デカルトはその観念による表象のうちにすべてがあることを出発点としながら、つまり全てはこの私の表象であるという独我論を出発点としながら、その系の内側から証明できる神の存在を使って、実在論を導いた。このとき、神は、「不在のまま全体を支えている」。あの、ラスメニナスの鏡の中のでボヤける王のように。ラスメニナスの王が目を閉じれば、あの絵は消えて、自閉世界しか残らない。王は神として描かれていたのだ。




まさに、この場所に、古典主義の後期からは、人間が座ることになる。つまり人間は起源を喪失する。カントのヒュームによる独断のまどろみからの目覚めは、人間学への再入眠だったわけだ。表象から欲望への転位と言ってもいい。カントは、古典主義時代の後半部で、ドンキホーテから目覚めたと思ったら、サドに入眠していたというわけ。文学の先行には本当に驚かされるね。どういう意味かというと、田舎娘を貴婦人として表象し、風車を竜として表象したドンキホーテは、ついに演劇の中の一人の登場人物になるのに対して、サドのジュスティーヌは、他者の欲望の対象としてのみ存在し、表象という冷たい外形を通してしか、欲望を感じることが出来ない。つまり、デカルトにあっては人間が問題にすらなっていないほど不在であったのに、そこへ超越論経験論二重体としての人間がカントにおいて挿入された結果、神を必要としない自律性はやっと達成されたが、今度は、ただちに人間理性の起源が喪失した。これらはすべて表象エピステーメーの中で起きた一連の流れである。まぁ、要するに、ハイデガーに言わせりゃ一発なんです。「客体がより客体的に現れ出れば出るだけ、それだけ一層主体的に、すなわち一層差し出がましく主体が立ち上がり、それだけ一層止めどなく、世界観察と世界論が人間論へ、人間学へと転化する。世界が像となることで、初めてヒューマニズムが始まるとしても、何の不思議もない」だってさ。さっすがハイデガー!何の不思議もない!はい。どーん!つまり、ものすごーく単純化すると、表象の構造って、欲望の構造に似てるよねってことです。「見る」って動詞は日本語の古文では欲望のことでもあるよね。これを今度は絵画論に置き替えるとどうなるか。マネの『フォリーベルジェール劇場のバー』が転換点であった。これまで絵画はキャンバスという物体を、絵の世界という表象空間に置き替えようとしてきた。しかし、この絵は、画布の持つ素材をそのまま現出させて使っているのだ。そのことによって、主観と客観の間に、自由な懸隔が生じている。女の視線は焦らしているように曖昧である。これが視線の戯れと呼ばれるものだ。意味がわからん。いったいどういうことか。ここでは、遠近法が脱構築されているのだ。奥にある消失点が無いため、鑑賞者の占めるべき位置がそこからの対応関係でこちら側に見出すことができないのだ。不在の王は本当に不在になってしまった。さっきのベラスケスだったら鏡に王の姿が不在ではあれどぼんやり写っていたのにである。しかしこの絵は描かれている。ということは、画家はここにいると同時に、いないのでなければならない。この両義性である。遠近法とは、一旦成立するや一般の人々のものをみるという経験を制約するような超越論的機能を持った、"時代の産物"である。だからそれを脱臼させてみたのだ。遠近法だって別に制度だよねと言いたいのだ。


さて、カントの人間学の眠りを覚ますのはニーチェであった。フーコーというと、有名なのは、人間の終焉という概念である。これで有名になったからだ。しかし、終焉する前に、そもそも始まっていたのだろうか。フーコーはこうも言っている。人間の死において、まさに神の死は完成するのだ、と。ならば、ニーチェによって神はとっくに死んだのだから、人間はとっくに終焉していた亡霊のようなものだったのだ。なぜなら、「人間」という概念自体が無限者との関わりなしにはありえないからである。神の死の前触れとして、人間の死があったよね。というか、遠近法ってさ、三角形を底辺で2個くっつけて描く描き方なわけよ。片方が消失点で、片方が鑑賞者の目ね。で、三角形と三角形がくっついてる底辺がキャンバスの底辺に重なるわけ。で、三角形とキャンバスの垂直線が交わる点で平行横断線を引くのね。これで奥行きが見える。で、消失点を神だとしたら、鑑賞者の視点こそが自己やん。てことは、有限な自己ってのは、無限な神の前提条件なわけです。でも、それが脱構築されちゃったわけだ。だって、新しい人間って有限じゃないんだもん。有限だけど、絶えず視点をズラしていく力能を持った、無限へ渾然と接続できるし、接続するたびにフィードバックを受けてまたズレていく、もはや人間とは呼べないような新たな存在。人間が死んだことで、生命力の横溢する欲望的主体が内側から突き破られて飛び出した。この横溢する生命こそ、病気や死、奇形や異常、偶然や誤謬といった、あらゆる逸脱を、それ自身のうちに本質的な契機として含んでおり、『非連続的な連続』のうちに生起するものである。生命は、『一瞬たりとも同じでないのに、一瞬たりとも途絶えたことがない』。身体は精神の監獄なのではなく、精神が身体の監獄なのだ。そしてそこに自発的に監禁されに行った人物がデカルトを筆頭にする近世的主観の境位であるとフーコーは暴露した。その監獄は神(という不在)しか外部を持たず、表象の世界に閉じ込められていたことが思い出される。主体化とは隷属化であるとはこのような意味だった。フーコーが晩年に注目したのは、やはりディオゲネスをはじめとするキュニコス派だった。ニーチェは、真昼間にカンテラを下げて市場をぶらつく男が、『俺は人間を探しているんだ』と答えたという逸話から、『神はどこにいる、俺たちが神を殺したんだ』と叫ぶ大いなる正午の話を換骨奪胎した。フーコーは、キュニコス派のこうした、パレーシアー(なんでも包み隠さず言ってしまうこと)を通して、魂のプラトンソクラテス的な純化ではなく、真理との関係を絶えず変えながら制度の恣意性を暴露していく一種のスキャンダルな生き方に、かえって狂気や獣性というものの尊厳を確認するという、他のように考えるという、そしてなにより、遊戯的なゲームの中で相手の自尊心に対して挑発を行い戦闘的・闘争的・韜晦的な対話を重ねることで、相手にも自分のうちにも、自己との闘争という修練の機会を提供する精神の崇高な運動を見出したのである。パレーシアスト・フーコーに相応しい幕切れとして、彼はドゥルーズに見送られた。









猿でも分かるメルロ=ポンティ、あるいは如何にして山浦くんとの見解の相違を止揚するかー時間・科学・隠喩ー

私には最近気になっていることが3つある。




 

デリダが自らをも解釈とするほど徹底的な相対主義の闇の中で、あえいでいるように見えてきたこと。

 

⑵時間の流れについてだ。私がみたところ、時間が流れるためには3つの非存在が必要である。「かつて」「いつか」そして「この現在を非存在にする非存在」である。この3つがないと時間は流れない。流れるというのは川の比喩だがそれは明らかに失敗していることが分かるだろう。時間は現在があるから流れるのだから川には船を浮かべなければならないが、その船は流れと同時に川を進んでいくのだから時間は流れるわけがないのである。しかも、川には上流と下流があるが、時間において過去はもうないし、未来はまだないはずだ。要するに時間を川の比喩で説明することは「3つの不在」が不在であるために不可能なのである。つまり時間とは存在ではなく生成なんだよな。哲学って学問である限り経験の総体に依拠するしかないから、この問題は解決しなそう。だって経験そのものがもつ構造なんだもんこれって。一方で、詩人の言葉は永遠の現在において紡がれる。花を見るとき、花が自分を見ているような。意識は再帰的構造を取るから自己定位には時差が原理的に必要だ。コギトも無言のコギトであったはずなんだ。考えていることにデカルトが気づくのは考えた後だろ。

 

⑶科学(山浦くん)と哲学がどう和解するかだ。そもそもひとつだったのだから、和解できないはずはない。

 

今回は⑶のテーマで少し読書をしたので考えたことを以下に書いてみる。

 

身体図式とはなんだろうか。ことばが身振りであり、全身の振動が怒りという意味を持つように、身振りであることば(声帯の振動、内声)が意味を持つことである。「掴む」のではなく「指差す」ことである(乳幼児は指差せない)。いやヴィトゲンシュタイン風に言おう。手を挙げることから手が挙がることを引いたとき差が0になることである。ただその話をする前にまずフッサール現象学メルロ=ポンティの違いを明確にしておこう。現象学的還元とは自然的態度のうちに含まれている一般定立を宙吊りにすることで、意識から独立に、超越して定位された世界を遮断し、意識に従属させることでそれ以上遡ることができない純粋意識という始原的領野の獲得である。フッサールは以上のようなことを考えていた。しかし、メルロポンティにとって「還元の最も偉大な教訓は完全な還元が不可能であるということだった。」なぜなら「隅から隅まで世界と関係しているからであり」「何度還元を繰り返したところで志向の糸は断ち切ることができない」。世界という超越は確かに向こう側にあり、意味を分泌しつづけている。我々は小林秀雄ふうに言うなら「物はみない。物の名を呼ぶ。」ことによって意味が湧出する始原的な現場を取りこぼしている。だから、ことばが流通する場面の手前に身を置く必要がある。「科学はものを操作するけれども、ものに棲みつくことは断念している」からだ。メルロ=ポンティの、主張はゲシュタルト心理学の例を少し見れば容易に納得がいく。たしかに点を見るとき私は点だけを純粋に見るのではなく、背景を背景化している。ミュラー=リアー錯視においても長い線と短い線は長さが違うのではなく、次元が違うのだ。だから長さも違って見える。遠くに見える森の中で枯れ木の倒木だと思っていたもの(そこにはわずかな異和と緊張(相貌のきしみ)だけが予知されている)が山小屋であったことに気づいたとき、風景が一挙に再編される。個々の部分が連合され全体の意味が再構成されるのではなく(経験論はここを見逃した)全体から部分へと意味が再配分され全体の意味とともに部分の意味が共変する。世界はそれ自体あらかじめ動的で詩的な構造を持っているのだ。哲学は詩的であり詩は哲学的であり、古代哲学は詩と不可分であった。世界はそもそも隠喩的である。言語の恣意性は本当だろうか。岩石だけでなく意志もまた堅固でありうる。初夏の緑に、文字どおり「心が奪われて」初夏の緑を生きている。しかしながら、世界から「経験の次元」を引き算したものが客観世界であると言われると、科学との和解はいっそう遠のくように思える。そうではなくて【客観世界から生命のために光を引き算したものが「経験の次元」である】、とメルロ=ポンティは言うべきではなかっただろうか。少なくとも私にはそう思える。(いやベルグソンの影響をメルロ=ポンティは最初に強く受けているのだから、むしろなぜこの知覚の減算モデルを退けたのだろうか。)これは科学への敬愛を込めた私のラブレターかもしれない。十分な根拠はない。しかし、そう直感するのだ。これは経験世界の詩的さをいささかも損なうものではいし、かといって従来の唯物論でもない。唯物論は未・決断時における精神の自由や、超越論的意識を説明できないからだ。我々は本当に、世界に層として意味を重ねていくのだろうか。というより、減じていくのではないか。解釈可能性を段階的に減らしていく。それが知覚ではないだろうか。だとすれば、科学の観測器具、カメラ、これらがありうる知覚の中で最も純粋ではないか。もちろん「物体が知覚する」ということの消息は別に辿られる必要がある。しかし、そもそも人間も物体的基礎を持っているはずである。我々の知覚すら、物体(身体機械)の知覚だと言い得るということは見逃されてはならない。幻影肢だって、脳に向かう求心性神経を切断すればただちに治癒するのだ。ただ少なくとも、「客観世界は、あるが、経験不可能である」という現象学の立場は共有している。足し算か引き算か、それが問題なだけだ。その経験不可能なもの(客観世界なるもの)が経験そのものを描き取ろうとすることばを侵食しているので、一旦それを遮断して、経験の襞をかたどる言葉が探し求められなければならないという現象学の基本プログラムにも同意できる。